タイトル | : Re: 阪鶴鐵道の橋梁 |
投稿日 | : 2007/12/08(Sat) 00:03 |
投稿者 | : もりた |
なかむら様:
ご投稿ありがとうございます。各地に散らばっているであろう
阪鶴の遺構について、このような情報により明らかになるのは
とても幸運なことと存じます。
阪鶴鉄道の工事や資材調達経路などに関する詳細な記録は殆ど
残っていないとされており、史料からこの工場の名称や場所を
特定するのは残念ながら困難かと思われます。
この橋梁がどのような理由でいつ頃から東武で使われて
いたのかも手元の資料の範囲では不明であり、むしろ東武の
記録をあたってみる方が見込みがありそうです。
ただひとつ私が存じ上げている範囲で関係する資料として、
宝塚市史の中に、明治30〜32年に阪鶴鉄道の工事で亡くなった
方のリストの一部というものがあり、その中に「第6号工場」
「第9号工場」という名称が見えます。(所在地はそれぞれ
宝塚の切畑、玉瀬)
以下推測で申し上げると、これらは番号で呼ばれているように
永続的な工場というよりも、福知山に向けて工事を進めるに
従って作られていった臨時の資材工場ではなかったかと思います。
小さめの橋梁がそのような工場で製造されたというのは、
ありえないことではなさそうです。これら「第○號」という名称は
プレートの3文字の表記に当てはまりうるのではないでしょうか。
なお、地名で3文字、かつ工場の名前になりそうな場所として、
これというものはちょっと思い当たりませんでした。
私も関東在住ですので、やや遠いのですが、そのうちこの橋梁にも
取材に参りたいと考えております。どうもありがとうございました。