■ 阪鶴鉄道の本社はどこに     [目次ウィンドウ]  [目次]

阪鶴鉄道の本社は「寺畑村の丘の上」にあったという記述が小林一三の「逸翁自叙伝」[89]中に見られる。京阪神急行電鉄五十年史[87]では、「寺畑村8番地の1」という番地まで掲載されているが、旧地名に付いているはずの字(例えば、「寺畑村字西垣内8番地」など)がなく、現在のどの辺りになるのかは不明である。

本社の写真が同書などに載せられているが、寺畑内でこの写真に相当するような場所で、しかも当時からの民家のない場所ということから、ひとつの仮説として、現在の全日空社宅の位置が浮かび上がってくる。しかしながら、この場所の旧地番は「寺畑村字山畑24番地」であり、8番地ではない。24番地の地歴としては、昭和25年、東洋綿花(現トーメン)が取得した記録があるが、それ以前の記録は失われているようである。但し、近隣の25,26,27番地はいずれも明治33年8月に阪鶴鉄道が取得している。

この山畑(現在の寺畑2丁目の主要部にあたる)は、阪鶴鉄道の用地になった場所が多く、記録に残っているだけでもこれ以外に、1の2,11の2,15〜23番地などが同時期の明治32〜33年の間に阪鶴鉄道の所有になっている。また、14番地の1は昭和期には鉄道弘済会の土地であった。

一方、本社所在地の記録を土地台帳に記載された所有者住所によって調べてみると、明治31年1月の時点では大阪市北区曾根崎、明治34年5月では伊丹町ノ内伊丹町となっている。川西市史によると、本社は「はじめ大阪駅前の内国通運会社の楼上に置かれたが、32年4月から伊丹町に移り、さらに池田本停車場の開設にともなって寺畑の地に移ってきたのである」([4]p.202)とあるので、伊丹移転までの住所とちょうど符合する。池田駅開業は明治30年12月なので、「開設にともなって」とは言えないかもしれないが、いずれにせよ伊丹にはわずかの間しか留まらなかったのであろう。

鉄道院文書には本社所在地を示す痕跡が残っているかと思われたが、そういったものは一切見当たらず、まことに残念である。

阪急電鉄の社史[87]や川西市史[4]によると、箕面有馬電軌の本社も創立当初は寺畑8番地の阪鶴鉄道本社の一角に設けられたとされている。箕面有馬の創立が明治40年で、同年に阪鶴鉄道は解散しているので前後関係が分かりにくいのだが、創立者の一人である小林一三の自伝[89]の方にはもう少し詳しく経緯が描写されている。明治39年3月に鉄道院による買収が議会で決定したのと同月、阪鶴鉄道の役員が発起人となり箕面有馬電軌の認可申請を行い、同年12月には認可を得た。この時期は阪鶴鉄道の整理期と重なっており、両方の事務が阪鶴鉄道本社で行われたようである。その根拠を同書から引用する。

阪鶴鉄道会社の本社は、現在の省線池田駅の山手の丘上にあった。そこでいつも発起人会や、会社の重役会が開かれていたので、私は、そこに出席する機会に、大阪から池田まで、計画の線路敷を、二度ばかり歩いて往復した。[89](p.164)

恐ろしいような健脚ぶりであるが、それはともかく同書より引き続き関係箇所を辿っていくと、翌年1月には「創立事務所」を大阪市東区大川町の魚喜楼に、さらに約半年後には「創立事務費を節約するため」高麗橋1丁目の桜セメントの2階へ移したと書かれている(桜セメントに顔が利いたため光熱費等を浮かせることが出来たということである)。このように創立事務所を大阪へ移したのは、小林一三が単独で創立までの責任(株式の払込や用地買収を完了させることなど)を請け負うに当たって、箕面有馬の発起人になっていた他の阪鶴鉄道の役員達の干渉を避けるためであった。そして明治40年10月にようやく創立総会までこぎつけるわけである。さらに新会社登記と同時に新会社事務所は、メインバンクであり株式の大半を一時的に引き受けていた北浜銀行堂島支店の3階に設けられたと書かれている。同書で窺うことのできる創立の経緯はここまでであるが、その後わざわざ事務所を寺畑に移すということは考えにくいので、寺畑の元阪鶴鉄道本社の住所は登記上の本社所在地に使用されただけという可能性が高いと思われる。ところが日本国有鉄道百年史[80]には阪鶴鉄道国有化について、明治40年の「8月1日社長田艇吉は政府代表と本社において会合し、全事業の引継ぎを完了した」と書かれており、もし寺畑の阪鶴鉄道本社が他の資産と合わせて譲渡されたのであれば、そのような場所を2ヶ月後に登記に使用するというのは、不可能ではないとは言えおかしな話である。箕有電軌が本社を買収していたのか、猶予が認められたのか、現時点では未調査である。川西市史[4]によると箕面有馬電軌の本社は明治42年4月、池田町から土地・税金の面で有利な条件を提示されたこともあって池田に移ったとされているのだが、仮に本社が箕有電軌のものでなかったのなら、早期に移転することは当然であったとも言える。

いずれにせよ寺畑は、このような意味で福知山線・阪急電車双方の発祥の地と言ってよいはずなのだが、一般にはほとんど知られていないようである。記念碑のひとつでもあってよさそうなものだが。

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