■ 国鉄関係の施設     [目次ウィンドウ]   [目次]

鉄道官舎
川西池田駅の北向い、寺畑町内には国鉄の職員住居、いわゆる鉄道官舎が存在していた。駅前の国道を東に行くとヤードに出る手前に煙草屋があったが、その左のゆるい坂道に入るとすぐ官舎のある地区に突き当たった。西側よりその地区に入り、平屋の官舎の間を突っ切って東に進むと、程なく日通の西を通る能勢電線路を見下ろす低い土手に出た。現在この辺りにはマンションが林立している。官舎の北側は公園で、現在も位置はそのままだが、整備の行き届いた「寺畑一丁目公園」として生まれ変わっている。

池田車掌区(派出所)
池田駅に機関区の支区が存在していたことは既に貨物ヤードのページで述べたが、戦前には大阪車掌区の派出所もあったことが「大阪車掌区史」[83]の中で述べられている。既に歴史上の一頁となり果てた感があるが、池田駅が三田駅と並んで阪鶴線〜福知山線の主要基地であったことを、さらに強く裏付ける史実ということができる。以下同書から引用して紹介する。

池田派出所は明治39年の「鉄道国有法」施行により、阪鶴鉄道のあとを引き継いだものらしい。いまの川西池田構内にあり、池田・尼崎(いまの尼崎港)間の事務を担当。昭和初期には6名の車掌を置き、欠員があれば大阪から助勤させていた。昭和15年に廃止。([83] p.114)
池田には摂津鉄道の工場も建設され、その後大正4年には大阪機関区・池田分庫も置かれるなど、拠点基地としての役割をはたしていた。そして車掌も池田駅に所属し、乗務していた。
しかし、大正8年12月21日、大阪車掌監督が独立して設置された際、三田(3名)、池田(9名)の車掌を「駅駐在乗務員」から、それぞれ「支所」として独立させ、その後、「派出所」と呼ぶようになったが、池田派出所は昭和15年2月、三田派出所は16年5月廃止された。(自治会小史:明和会 [83] p.202)

所在については「駅構内」と書かれているだけで、複数あった建物・詰所のどれに当たるかは不明である。(ちなみに末期の構内には駅本屋以外にも保線掛、通信掛、踏切番小屋、貨物扱所、荷物扱所など大小さまざまな建築物があった。)

弘済会池田授産場
その他、釜割谷踏切の北側、雲雀丘へ上がる最初の急な坂道の横には、鉄道弘済会の施設(池田授産場)があった。国鉄の労災救済の一環として設けられた作業所で、ここでは裁縫などの作業が行われていた。[102]によると、設立は昭和13年9月15日で、弘済会の授産場としては全国で最も早く設置されたものである。坂は途中からこの施設を囲む崖のようになりつつ左に折れているので、登り切ると下手に施設が広がるのが見え、さらに国道、福知山線と俯瞰できた(もう一つ、伊丹空港を飛び立って旋回するジェット機もここからは良く見える)。現在はマンションや福知山線の上を跨ぐ道路が少し視界を遮るが、以前は邪魔するものもなく、すっきりと福知山線の列車が見渡せたものだった。この施設は、少なくともS.40年代にはまだ存在していたが、その後早々と姿を消し、更地にされていた。なお、道の北側は全日空の社宅になっていて、こちらは全日空の看板が消えた他はあまり変わりない。

追記:業務種目は洋裁、被服更生修理、印刷(48年)、孔版印刷などで、廃止されたのは昭和49年12月31日[103]

寺畑2丁目坂

寺畑2丁目坂 (2000.5.)
拡幅された現在の坂道。中央の全日空社宅は、この辺りとしては近代的集合住宅のはしりで、かつては新しい集合住宅と古い平屋(画面左のマンションの位置にあった鉄道弘済会施設)の対比が見られたはず。

池田授産場

山畑14番地(上の坂の西側)にあった鉄道弘済会池田授産場
(「鉄道弘済會三十年史」[102]より)

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