■ 能勢口と国鉄前を結んでいた能勢電     [目次ウ ィンドウ]   [目次]

能勢電川西能勢口駅から阪急の下をくぐって川西国鉄前まで、一区間・単線・単行の電車が走っていた。川西池田の駅からは500mほど離れており、貨物ヤードの入口、日通倉庫の西隣にあった川西国鉄前は、草生したホームひとつの無人駅だったが、古くは能勢電の始発駅であった。しかし、それと知らなければこのホームが使用されているかどうかも判別し難かったであろう。

最後まで走っていた車両は51と61で、能勢電の車両としては数少ないオリジナル設計(阪急車両の車体でないという意味で。50形は木造車阪急37形に鋼製車体を載せ替えたものである。)の張り上げ屋根で額のツルッとした鋼製車だったが、S.56(1981)12.19の区間廃止の翌年、S.57(1982).6.17にはどちらも廃車となり現存していない。再開発の頃はただのオンボロ電車と嫌われたのかも知れないし、戦前の木造車でもないため価値が低いとされたのかも知れないが、やはりアステの片隅にでも保存しておけば、川西にしかない産業記念物となったのにと思うと一抹の寂しさが残る。とはいえ本当にボロボロに錆びていて保存に耐えなかったのかも・・・

国鉄前から西友の西まで、S.40代末期かS.50頃だったと思うが、この線路に沿うようにしてコンクリート敷の通路が作られた。それまでは雑草の生い茂る道なき道だったのが、自転車も楽に通れるようになった。夕刻、西友で買い物をして帰ってくると、ごく稀に、オレンジの室内灯をほんのりと窓に映してゆらゆらと背後から追抜いて行くことがあった(さすがに子供の自転車よりは多少は速かったのだろう)。一度だけ面白半分でこの区間に乗ったことがあるが、乗客は他に誰もいなかった。あっという間に到着してしまい、残念ながら印象にはほとんど残っていない。

この線路は中程で阪急の下をくぐるわけだが、能勢電のこの区間は阪急宝塚線(箕面有馬電気軌道)よりも後に出来たわけで、そうなるとそれ以前、ここは南北に分断された単なる築堤だったのか、それとも最初からくぐり抜けられるような橋がかかっていたのかという疑問が湧いてくる。この下は用水(旧小戸井)が通っていたが、規模からすると橋にするほどのものでもなかった。まったくの推測であるが、当初土手の花屋敷側は丘、能勢口側は平地で、ここに箕有電車が線路を敷くに当たって能勢口側からなだらかに上る勾配を盛り上げたのではないだろうか(参考文献[2]に掲載されている明治18年製陸軍参謀本部1/20000地形図によると、鉄道敷設前には築堤は存在していないようである)。その際、能勢口〜池田駅間を荷車や人が通れる道にしていて、そこに後から能勢電が延長線路を敷いた、従って最初から阪急は橋を架けていたという推測をしてみるのだが、本当の所はどうだったのだろうか。

箕有線のできた後・能勢電ができる前の時期に測量された、明治42年製地形図[7]をその後確認したのだが、上の推測で間違いないようである。

能勢電61形

ジオラマ:阪急をアンダークロスする能勢電61形のイメージ
(1/80, 30cm×30cm) 製作・車両組立=筆者 1998

この池田駅前停留所は、開業以前の計画時には始発駅として計画されたものの、諸般の事情により後回しになったという歴史的な経緯があった。すなわち、明治38年の計画当初は阪鶴鉄道の池田駅構内に乗り入れる計画であったのだが、阪鶴鉄道から構内乗入れを拒絶されたことにより(前後して阪鶴鉄道は国有化されるのだが、経緯は不明)、箕面有馬軌道と接続する地点である能勢口までに後退することとなった。この時、後の池田駅前停留所の位置で留めずに能勢口まで短縮した理由は定かではないが、池田町から物流が池田を素通りすることへの反対があったため阪鶴鉄道線から起点を離したという説[3][46]もある。いずれにせよ、開業から3年後の大正5年5月17日、能勢口〜池田駅前(国道の手前)延長という形で改めて特許申請を提出し、翌大正6年8月8日には開通の運びとなったのである[47]

この池田駅前停留所は、官線との連絡貨物輸送を重要な使命としていたためか特に貨物用の側線を設けていたようで、その線路配線にもかなりの変遷があったようである。以下、残されている図面を手がかりに探ってみたい。

池田駅前平面図

「能勢口池田駅前間平面図」より池田駅前停留所[49]
大正12年 (国立公文書館所蔵:原図 )に基づき作成

これは大正12年の文書に付属しているものであるが、線路が建物の上を通って描かれていることから、特許申請時(大正5年頃)の図面と見てよいかもしれない。鉄道院線の引込線が街道を渡って北側の建物(何の建物であるかは不明)横に来ている。

池田駅前平面図

「伊丹延長線軌道工事施工認可申請書」 付図 「能勢電伊丹延長線路実測平面図」より、既存の池田駅前停留所部分[49]
大正13年4月26日申請提出(国立公文書館所蔵:原図)に基づき作成

これは伊丹延長計画図から抽出した図面であるが、前の図にあった官鉄引込線が無くなっているのが特徴である。

池田駅前平面図

「停留所乗降場擁壁設置届」付図1「各停留所平面図」より池田駅前停留所 [49]
大正15年9月3日届出(国立公文書館所蔵:原 図)に基づき作成

これは、線路に面したホーム側面に擁壁を設置するための申請書に添付されていた構内平面図である。貨物積卸場を挟んで分岐線が2本あり、一方は街道を渡って官鉄側へと伸びている。右の建物にははっきりと「帝国鉱泉会社倉庫」と書かれている。また、ホーム上屋も描かれている(上屋については、[46]p.62を参照)。この形態が第2次大戦後まで長く続いたのではないかと推測される。

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