■ 尼崎港線(尼港線)     [目次ウィンドウ]   [目次]

かつて福知山線は、尼崎駅の手前より分岐して金楽寺を経て尼崎港へ至る盲腸線を持っており、川西池田(末期には塚口)との直通列車が走っていた。正式には福知山線の一部なのだが、通称として尼崎港線、尼港(あまこう)線と呼ばれていた。

筆者の知る尼港線は、2つ目の後期型DD13がブルーのスハフ42形客車2両を従えて朝夕のみ主に通勤客を輸送するというものだったが、貨車を併結することもあったようである。日中このDD13が川西池田の側線(下の写真の手前ホームと柵の間)に入ってくる姿をよく見掛けたものである。貨物ヤードの入替えに使用されていた可能性も大きいが、そのことを示す資料は未見。また、客車の方は副本線(留置線)に留置されていたようである。

小学校の同級生が金楽寺から通っていた。ある日下校時の私との会話:「今日これから大阪連れてっててもらうねん」「そしたら一緒の汽車でいこか」「でも辻やん次の尼港の方乗るんとちゃうん?」「うん。そやけどその次の大阪行乗って尼崎から歩いても変われへんねん。そしたら駅で待ってるわ」のんびり走る列車であった。

尼崎港線は、川辺馬車鉄道という福知山線の発生形態を細々と伝承していたと言えるかもしれない。

尼崎港行の発車 ©H.Morita

尼崎港行列車を見送る (1965頃)
3番線より発車する副本線に留置中の川西池田発尼崎港行列車の最後尾を国道側より撮影。
客車はダブルルーフ(車番判別不能だがスハフ32と思われる 窓配置が2枚単位でゆったりしており、拡大するとシートが普通車とは異なる。戦前の二等車スロフ31200を格下げしたスハフ50であるらしい)。

副本線に留置される尼崎港混合列車 ©H.Morita

副本線に留置される尼崎港混合列車 (1975.7)
手前側線には、ヨ6451

写真手前に写っている枕木の柵は、戦前は存在しておらず、道路から構内へと行き来することが可能であった。手前の側線も未だ存在せず、丁度その辺りに機関車の落とした石炭の燃え滓が山積みされていたので、燃料の乏しかった当時、灰に混じった練炭を近所の住民がよく採りに来ていたという話である。

又これも古い話であるが、写真のこちら側、米穀店の隣に国鉄の仮宿泊所(寝泊り部屋)が設けられていたことがあり、寝坊した車掌が朝一番(二番?)の尼崎港行き列車を追いかけて、道路から列車へと走る姿も稀に見かけられたという(坂本氏の「車掌裏乗務手帳」で紹介されているエピソードと符合する)。これもまだ柵がない頃のことだったそうなので、楽に間に合ったことであろう。

側線のDD13

側線に憩うDD13のイメージ
1/80模型 :HobbyModelキット組立・ジオラマ製作=筆者(2001.1)

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