■ 続・能勢電国鉄連絡線     [目次ウ ィンドウ]   [目次]

(1)能勢口〜池田駅前線開通までの経緯について(補遺)

大正5年に行われた延長申請よりも前、最初の軌道敷設申請において既に 阪鶴鉄道池田駅構内までの路線が含められていたことは、既に前節で述べた通りである。 この池田駅構内〜一の鳥居間の特許申請(明治38.3.30)のうち、当初(明治40.3.4)許 可が下りたのは、能勢口〜一の鳥居間のみであった(「風雪六十年」[47])。この 点について、「能勢電鉄」[46]においては、

この特許は……起点としていた阪鶴鉄道の池田停車場への乗り入れは認めら れず、兵庫県川辺郡川西村の内小花村字大畑30番地先の能勢口停留所より同郡東谷村大字 東畦野字長尾4番地の1に至る3M79C(6.4km)にカットされたものであった。
起点の変更については、当時阪鶴鉄道の機関庫修理工場への支線を能勢電の路線が横断す ることになるので具合が悪いこと、箕面有馬電軌の計画線と並行していて競合すること、 さらに池田町北ノ口の商人が能勢電の阪鶴鉄道池田駅直結によって立地が変わるのを恐れ て反対運動を起こしたことなどが原因といわれている。(p.11)

と記されている。同文では、これらの事項を以って特許が能勢口までに短 縮された直接の理由であるとは言っておらず(「起点の変更については〜といわれている」 という言い回しに注意)、この点は免許関係の文書を確認する必要があるが、特許が能勢 口起点であった点、会社としてはそれに従い開業時の路線を能勢口起点としたという点に ついてはまず間違いなさそうである。
ここで挙げられている原因のうち、池田町商人の反対については[47]においても以 下のように記されている。

このとき,池田町の北の口商人たちが,商品の価格の変動を恐れて,能勢電 鉄が福知山線と接続する池田駅前を起点とすることに反対運動を起こした。そのため計画 が変更され,能勢口起点となり約30鎖(約0.6キロ)の線路が短縮された。 (p.14)

上文で「このとき」というのは、前後の文脈から太田雪松が専務に就任し た明治44年から大正2年の開通までの時期を指すものと思われる。となると、上に述べた 明治40年の特許による路線短縮よりもかなり後の時期に当たり、これが特許の決定に影響 を与えたとは考えにくい。一方、この時期は能勢電としては社内の乱脈経理等の混乱を収 拾させ会社を存続させる道を模索するとともに、一旦能勢口起点で着工したものの官鉄と の連絡を採算上の理由から捨てきれずにいた頃であるので、もしこの時期に池田町からの 反対運動があったとするならば、それは当初の開設時特許申請に対するものではなく、能 勢電社内にあったであろう延長申請の動きに対するものと考えられそうである。
ところで、[47]の巻末年譜には、明治45(大正元)年6月27日、「官鉄池田駅前連絡 延長線許可さる」という事項が載っている。本文中にも何も関連する記述がなく、筆者は 最初これが何を意味するのかわからなかった。明治38年に申請して40年に部分許可が下り た最初の免許に遅れて残りの部分の許可が得られたのかと思ったのであるが、それではつ じつまが全く合わない。そこで同年表のすぐ上を見ると、同月同日、「岡町公会堂にて臨 時株主総会を開催し、延長線(一の鳥居−吉川村間)申請の件可決」とあり、これと併せ て考えるなら、同じ株主総会で連絡線を申請する件が「許可」されたと読めそうである (通常は「許可」するのは官庁であるし、前項と分離して書かれているのが疑問ではある が)。
そうすると、池田町の反対運動とこの「決議(?)」との間に何か関係性がありそうに思え てくるが、現時点ではそこまでを証拠付ける記述・資料は見当たらない。
また、これ以外にも大正2年の開通式における太田専務の式辞に以下のような一節が見受 けられる。

また能勢口停留所より延長して官鉄池田駅に至る線は,目下出願中にして遠 からず認可あり次第,ただちに工事に着手し数ヶ月たらずして竣工せしむる予定なり。こ れら完成の上はさらに一層貨客両者の便利を増すことなりと信ず。(p.23)

「目下出願中」など若干の過剰修辞と思われるが、明治45年の延長申請決 定を受けて出願準備を進めていたことが伺われる。実際に出願成ったのは同年太田専務が 能勢電を追われてから3年後、大正5年のことである。太田専務の広げた風呂敷に違わず、 工事はわずか3ヶ月で終了した。

なお、本章題名の「国鉄連絡線」はこの区間の通称である。

(2)池田駅前停留所の上屋について

末期には雨ざらしの片面ホームひとつの寂れた状態であった池田駅前(川 西国鉄前)停留所にも昔は待合所となる上屋が存在していたことについては、前節でも少 し触れたが、これは昭和39年9月25日にこの地方を襲った台風20号により駅舎全壊の被害 を受けた際([47]p.145)、撤去されてそのままの状態にされていたものであるらしい。 同台風では他にも最明寺川の氾濫など大きな被害があったことが近隣住人の記憶に残され ている。

(3)停留所前の分岐について

池田駅前停留所の側線であった国鉄との連絡貨物輸送線は、昭和40年頃に 車両搬入に使用されていた写真が残されているものの([46] p.75)、その後の経緯に ついては文献でもあまり触れられていない。ところが最近、坪田宏氏という方より興味深 い写真の提供を戴いたので、それに基づいて若干の記述を追加したい。
次の2枚の写真は、停留所(本線)終点から五、六十メートルほど能勢口寄りの、側線分 岐のあった場所の変化を捕らえたものである。昭和48/1973年春にあった分岐レールが、 少なくとも翌年9月には撤去されていることを知ることができる。転轍器の存在は前者に おいても草によって確認できないが、既に外されていたのかも知れない。

1973春 ©H.Tsubota

停留所前分岐地点(1)
画面の遠方、カーブを曲がった所が国鉄前である。1973春 (坪田宏氏提供)

1974-9 ©H.Tsubota

同地点(2) 分岐レール撤去後
1974.9. (坪田宏氏提供)

これより7年後の路線配置が阪急鉄道同好会報[91]に掲載されて いるが、その図では分岐の部分は点線で表示されていて痕跡が認められる程度であったこ とがわかる。同会報の記事では、「国鉄構内まで引込まれていた貨物線も廃止されてその 跡は砂利捨場と化しており,その砂利の間に旧貨物線のレールが僅かに残っている」と書 かれているように、上の写真(2)の叢の向こうから停留所の脇を越えて国鉄ヤードに至る 側線のうち、一部のレールは(少なくとも国道を横切る箇所については確実に)放置され ていたようである。
ちなみに、この頃の路線を覚えている方の話を聞くと、ポイントがあったと記憶する人と、 知らないという人とに分かれるが、これら写真によればどちらも正解で、ただ時期が違っ ていたのだということが納得されるのである。

(4)使用車両について

前掲会報[91]によると、連絡線が到着する能勢口のホーム部分は 車両の幅に合わせて部分的に狭くなっていたため、本線用車両は同線に進入することがで きなかったとされている。これはおそらく昭和51年に導入された610型(車体幅2750mm)以 降の車両への対応後の事情を指すものと思われる。同型の入線に伴って、全線で車両限界 拡張工事が行われたとされているが、ここだけは敢えて対応しなかったのであろうか。車 両の方も他の小型車と異なり乗降口ステップ追加改造を受けなかった[15]。ステップ を付けると国鉄前停留所の石積擁壁のあるホームを削らなければならなかったので、それ を避けたのかもしれない。
前節で、末期の車両として51と61を挙げたが、専ら51号の方が使用され、61号の方は予備 として車庫にいたようである。この2両が専属となる以前(昭和41年以前)には31,32号 が使用されていたとされており([47]p.170)、またその前(昭和34年以前)は直通運 転時代となる。
昭和41年1月、集電装置の変更があり、51,61号のトロリーポールはZパンタグラフに置き 換えられた([47]p.170)。両者が併設されていた時期もあったことが車両写真から伺 える([15]p.27-28)。

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