阪急・能勢電の川西能勢口駅近辺も再開発によってがらりと一変した地区である。この変化を詳細に記述するのは筆者の力量を超えているが、思い付くままにざっと述べてみたい。
まず、高架前の末期の川西能勢口駅がどのようなものであったかというところから始めたい。筆者はS.52〜S.58まで6年間この駅を通って通学していたにもかかわらず、どうも良く思い出せない部分がある。それくらい当り前のものになっていたということかも知れない。ここでは資料の構内配置図[90]を頼りにこの頃の駅の構造を描写してみたい。
最晩年の川西能勢口地上駅周辺図(Not to scale)
戦前はホームももっと短く(東半分くらい)、当然地下道の類も一切なかった。また、能勢電ホームと阪急ホームとは上図に比べると少し離れていた。このような開業から末期までの配置の変遷については能勢電鉄社史[47](pp.140-141)に図示されており、大変に参考になる。
川西池田に比べると駅周辺は遥かに複雑で人も多く賑やかであった。逆に言えば乱雑で土地の利用状況はほとんど飽和状態であったとも言える。子供の頃謎だったのはジャスコと中央市場に挟まれた地域と、火打街道の西側のパチンコ屋の裏側の地域であったが、今思うといわゆる赤提灯と小さな住宅の密集地だったわけで、子供には縁が無くて当然である。
ここで、鉄道とあまり関係ないが、街の様子をいくつか描写してみたい。
再開発で中央市場・中央商店街も移転してしまったかと思っていたが、再訪するとアーケードも商店も残っていた。ただ、国道側半分くらいは火事で焼けてしまったとのことで、現在はその場所に高層住宅が建てられている。残っている部分の商店は昔とほとんど同じ顔ぶれだが、なくなった部分の商店は一部がジャスコの向かい・阪急の高架下に移っているという話である。S.40年代の中央市場の雰囲気は今でも部分的に記憶している。店先の平台の上にシラスを山盛りに載せて量り売りしていた乾物屋、豆腐にバーナーの炎で焼き目を入れる作業が凄かった豆腐屋、壁一面天井まで届きそうに並んだボタン箱が宝箱のように見えたボタン屋(裁縫具屋?)、そして曲がり角の所の八百屋の向かいで、緑とオレンジの噴水を閉じ込めたようなガラス容器が頭に乗っかった機械を置いて「グリーンティー」と「オレンジジュース」を販売していたのは何屋だっただろうか。いつまでも記憶に留めておきたい温かい光景だったと思う。
現在の中央商店街 (1999.8.8)
ほとんどの店が閉まっているのは日曜日だったためということもある。このアーケードの先に踏切があって、渡ると左側が川西能勢口駅であった。高架化された現在は代わりに、駅からの長い通路の出口となる階段がある。
左側の並びにあったモンデン書店で「ラジオの製作」や「子供の科学」を買ったものである。
中央商店街の前身は戦前からあった能勢口商店街で、昭和33年の市役所移転時にこれが母体となって中央市場が開設された。この中央市場は、川西市の近代的集合商業施設としては新町市場に続いて二番目に古いものであった[4]。下の地図に斜線でアーケードの配置を示したが、国道に面したブロックは川西町町役場の跡地である。昭和5年の「川西町パノラマ地図」[4](p.291)を見ると、この町役場の他にそのすぐ西隣に女学校が描かれている。これは小さな裁縫学校であったとのことである(大雑把な位置関係からすると会館の前身か?)。また、今でもある小さなお稲荷さん「藤の森大神」も記されている。この横を流れていた水路は、用水路「加茂井」の一部で、日通の横で北からの本流(?)に合流していた。
藤の森会館は小規模な集会場であったが、市場を利用していた人の記憶によると、子供向けの学習教室をここで開いたりもしていたとのことである。
中央市場のあるブロックは、再開発においては後回し組にされている格好であると思うが、当初の再開発計画では火打街道沿いの南北に亘るブロックと、その南端(図書館の所)に接続するこのブロックとで作られるL字型の地域を商業区域として開発するよう計画されていたようである[5]。
こうして抜き出して地図にしてみると、駅と国道に挟まれて如何にもアーケード商店街がありそうな、同様のアーケード商店街がいくつも挙げられそうな、ひとつの典型的立地条件であることに気付く。実物の大半が失われた今、他の似た商店街と記憶が入り混じりそうである。
社の存在もいわくありげだが、この商店街に関しては高度成長期に純粋に商業施設として計画されたものであって、門前商店街のような自然発生的なものではなさそうである。ただし、商店主の参詣対象となっていたことは十分考えられる。
全盛期の川西中央市場・中央商店街の位置(S.40〜50年代)
基本的に西側に折れた部分(市場)には主に生鮮市場が、南北の街路(商店街)にはその他の商店が集まっていたが、例外もあった。商店街には前記写真のようなアーケードが設置されていた。市場の方はアーケードというよりも通路に低い屋根があり半屋内化されていた。
©M.Takii
中央市場南側・国道 (1965前後)
はっきりと位置はわからないが、「つるや薬局」の看板、道路右の並びにバス停があること、および奥に見える架線柱の角度から国道沿いの中央市場南端であると思われる。薬局の並びで他に判別可能なのは「高橋ふとん店」くらいである。一番手前の荒物店がちょうど市場の西端の入り口の角ではなかったかと思う。国道の向いも商店が立ち並んでいる。道路の上には「学童横断注意」の横断幕。
中央市場南側の国道の交差点 (1999.8.8)
ここを入ってしばらく歩くと川西小学校に出る。途中に模型店があり、遠かったけれども何度か足を運んだことがある。昭和50年頃そのショウウィンドウで、「ジオラマ」(ミリタリー系)の実物を初めて見たのを記憶している。鉄道模型はあまり扱っていなかったと思う。
阪急バス小花一丁目停留所 (2001.8.14)
中央市場西を出たところにあった、「川西能勢口」停留所の現状。奥の家屋の軒先と半ば一体となったような待合所で、確証はないが昔もこのような感じであったような記憶がある。当時はあちこちがこのようなトタン波板の壁であった。
ジャスコは、S.40年頃まであった「シロ」という犬のような名前の大型スーパーがその前身である。当初より非常に先進的なスーパーマーケットであったようで、昔の面影を濃く残した部分もまだまだ現役で通用していると思う。
(2013.10.4.修正:「シロ」の名称起源については、「色の中で白色はすべての色の出発点であり、商売をするうえでつねに純粋無垢な立場でお客さまに接したいとの気持ちを表したものである」(「ジャスコ三十年史」p.49 [121])とのこと。また、ジャスコ川西店はこの記事の後2011.4に閉店・取り壊され、14階建のマンションとなった。)
シロ開店はS.37.11である。当時の空中写真によると、住宅4棟分の敷地跡に建てられ、今の敷地に比べて南側半分程の大きさであったことが分かる。北側の阪急の線路との間は空地のようで、シロとの間、東西にやや大きめの通りが存在している。この道も含めて増築された後は、今のように線路の真横にある道がその機能を持つようになった。(S.45.3 岡田屋と合併してジャスコに名称変更、S.48.9 改築。)
(2013.10.4.追加:改築中は、駅北側、旧阪急ショッピングセンター西隣の県道沿いに仮店舗を設けていた。 [122])
ジャスコのホームページによると、1973.9.『ワンストップショッピング機能を強化した「アンカーストア」として川西店(川西市)オープン』と特記されている(http://www.aeongroup.net/jusco/koho/juscovision/history.html)。
アンカーストアとは、都市地域におけるショッピングの核となる商店のことである。当時の能勢口にはこの「アンカーストア」というべき大規模店が相次いで開店したのだが、まさにそれに見合った需要がここには存在していた。
(2013.10.4.追記)前出の「ジャスコ三十年史」p.50によると、シロ川西店の入口には「セルフサービス・ディスカウント・デパートメントストア」、略して"SSDDS"という看板が掲げられていたとあり、既に現代の食品スーパーに近い販売形態が取られていたことがうかがわれる。当初は衣料品のみを扱っていたが、S.38.1にスペースを拡げ、食品・日用品も扱うようになった [121]。(なお、同書にはシロ川西店の写真は出てこない。)
現在のジャスコ (2001.8.14)
できれば当時の写真を掲載したかったが、手持ちにないので現在の写真を掲げる。ジャスコの建物自体の記録としてはこれでも十分かもしれない。CIでロゴが変わり、渡りデッキが追加されたのが大きな変化である(ロゴマークはこれ以前にも何度か変わっているが)。
西口を出て能勢電沿い(北側)に国鉄前へと歩く道もよく通った。戦前の写真では畑の中の畦道で、どのように発展したかは不明ながら、少なくとも筆者の知るS.40年代以降はいろいろな店が立ち並んで賑やかであった。今はボーリング場やモザイクボックスのある辺りであるが、西友の東隣の家具屋・パーマ屋・ハンバーガー屋などを記憶している。
ハンバーガー店といえば、この店(『バーガーロック』)が川西で最初のハンバーガー店だったと思う。続いてジャスコ北側横にマクドナルドも開店したが、その後もしばらくは独自のメニューで人気があった。
能勢電の線路との間には極めて簡易な作りの商店があったような記憶もあるが定かではない。
西友はジャスコよりも遅れて出来たが、中のレコード屋(新星堂)と本屋はよく利用した。現在はかなり独特なフロア構成に変化した印象がある。西友を過ぎると商店は少なくなるが、現在でも、阪急(百貨店)へと折れずに旧能勢電の線路のあった辺りと並行して西へ歩くと昔の面影が残っている。
©H.Tsubota
建設中の西友 (1974.3.) 坪田宏氏提供
川西能勢口〜雲雀丘花屋敷間の能勢電上を通る築堤からの写真で、左にちょうど建設中の西友が記録されているものである。もう完成間近であり、この翌月の4月には開店している。
市内では既に前年の1973年、西友多田店が開店しており、これが2番手となる。
画面中央の少し低い建物は、能勢口駅ホームの広告でも目立っていた「しまづ産婦人科」。
現在の西友 (2001.8.14)
当初からのS字を引き伸ばした一際目立つ正方形ロゴから写真のものに変わっている(かなり前のことだが)。壁も塗り替えられているが建物自体は同じである。前の広場は大量の自転車で溢れていた。宝くじの出店が横にあるのも昔ながらの光景である。
火打街道と川に挟まれた辺りは、再開発で道路と川西アステ(複合商業ビル)の一部に変わった。再開発でもっとも劇的に変化した場所といえるかもしれない。街道を挟んでジャスコの向かいにあったパチンコ屋の左側に小さい抜け道があり(この途中に換金所があったらしい)、埃っぽいトタン壁に挟まれて人ひとり通るのがやっとだったが、川沿いの道に出る近道であったので、よく通ったものであった。しかし下手に脇に入ると、少なくとも子供にとっては迷路であった。
能勢口周辺の商業施設として忘れてならないのが駅北側の旧市役所並びの阪急ショッピングセンターである。火打街道からすぐに入れる大きな駐車場があって車で買出しに来るのに便利で、また北側1階部分を占めていた食料品市場も充実していたと言われるが、現在はその面影はほとんど失われている。西友の駐車場もそれなりに大きいが、こちらの方が入りやすかったようである。開設はS.43.5で、当時新町市場の衰退によって移ってきた商店が入ったといわれる。
阪急ショッピングセンター (2001.8.14)
全盛期の充実ぶりは相当なものがあった。が、今筆者の記憶に鮮明にあるのは1階北側中央あたりにあったたこ焼きコーナー位となってしまった。