■ 川西池田駅前・昭和40年前後     [目次ウィンドウ]  [目次]

前節では昭和50年代の末期の旧川西池田駅を紹介したが、続いてそれよりも10年ほど遡った、昭和35〜42年頃の同駅前の状況を、新たに発見された写真により追ってみたい。いずれもこの期間に撮影されたものであるが、特に注記したもの以外、これ以上時期を特定できていない。

最初の写真は、駅北側の正面を撮影したものである。まだ右側バスロータリーはなく、樹木が生い茂っている。駅舎の向こうに煤煙が上がっているが、ちょうど改札越しの上りホームに列車が見えるので、おそらく蒸気機関車の煙が流れているのであろう。

  ©M.Takii

(1963/S.38頃)

駅名看板が後年はトタンの下屋の上に設置されていたのに対し、この時期は母屋に位置していた。拡大してみると(下)「川西」の文字は「池田」の文字に対して添えられるように小さく書かれているのがわかる。「川西池田」への改名(S.26)から10年も経っているのだが、これではニ地名の複合名称というよりは、どちらかというと修飾・注釈の表象構造であり、過渡期の一時的現象であったとしても、なかなか興味深い。

  ©M.Takii

次は待合室横の郵便ポスト、電話ボックスなどである。駅舎の角になった部分には縦長の小窓があり、その上に球形の電燈が設置されている。この窓や電燈はその後もずっとあったが、使われた形跡はなかったと思う。元々鉄道郵便と関係がある窓口ではなかったかと思われるものの、詳細は不明である。

電話ボックスはこの頃は独特な形態のものであったようである。ガラス張りのものに変わる前に丹頂鶴タイプのボックスがあったと前節で書いたが、この写真により、果たして丹頂鶴の時期があったのかどうか少し疑問に感じられる。

  ©M.Takii

次は国道を含めて少し南東側を見たところである。道路のペイント標識がないせいか非常に道幅が広く感じられる。おそらく車の往来も大してなかったのであろう。交差点の信号ももちろんまだ設置されていない。
なお、画面中心の植え込みの角、後年市の掲示板が置かれていた所に何やら由緒ありそうな柱が立っているが、これは警察署の「暴力追放」の標語が書かれているだけである。その右の白っぽい立て札は「タクシー乗り場」の看板である。

  ©M.Takii

拡大すると、左の方に有蓋貨車の列(島ホームの向う)と給水スポート(上りホーム)が写っているのがわかる(下)。

  ©M.Takii

次は国道を少し西に行ったところから駅前交差点を写したものである。ダンプカーが時代を感じさせる。坂の入り口、タバコ屋の塀には映画などのポスターが貼られていた。向いの食堂の角には掲示板と、その横に「1.7km 花屋敷ゴルフコース」の看板と「これより山手 三割増運賃」という札があった。

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(1963/S.38頃)

左が少し切れているが、そのタバコ屋の正面(駅側)である。これは上の写真よりは新しく、道路に車線や停止線が描かれている。

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(1966/S.41頃)

次は向いの食堂の内部である。窓から跨線橋が見える。左端のガラスケースではパンも売っていた。業務を終えた駅員がよく一杯やりに立寄っていたということである。天井からハエ取り紙が下がっているのは当時よくある光景であった。

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(1964/S.39頃)

下の写真はバス停ができる前の藤棚の辺りで、国道を介した向こうにセンターケンネルの看板も一部のぞいている。大きくうねった藤の根っこはバス停ロータリーができた後も残っていて(藤棚が残ったのだから当然ではある)、写真左下でこの根っこを支えているT字型のパイプのことを筆者はよく覚えている。不思議な形態であり、またわざわざ鉄パイプを使用しているのがおもしろい。
余談ついでにもうひとつ、駅事務所裏に「輪投げ」があったのも覚えている。木の板に棒を付けた的とゴムの素っ気無い輪だけの簡単なものだったと思うが、駅員の余興に使われていたのであろうか。余興といえば事務室内の休憩所には蓄音機もあったそうである。

  ©M.Takii

最後の写真は駅前から国道西側が写っているものである。国道に沿って踏切へと折れる道に出るまで、駅敷地との間には柵が続いていた。柵の内側に建物が見えるが、通信掛詰所であったとのことである。
ちょうどこの左にバス停のロータリーができる直前で、植え込みが整地された頃の写真である。

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