■ 能勢口と鉄道関係施設     [目次ウィンドウ]  [目次]

阪急の引込線

地上駅時代、阪急川西能勢口駅の南西側といえば、線路脇の喫茶店「カサブランカ」・飲食店「ときわ」などを挟んで火打街道から入る狭い通りがあり、その南側がジャスコという配置であった。これが筆者にとってはひとつの基準となる時代なのであるが、駅が高架された現在、ジャスコ側を向いて見る限りその頃から同じ風景のように見える。これに対して背後は食料品スーパーとなり、さながら別の場所のようある。何かこの道路を境とした時代の断層を見るような気もする。
ところでこのジャスコ向かいの場所には、昭和40年代の前半まで事業用と見られる引込線が存在していた。これについては他の項目でも御紹介している坪田氏から、次のようなお話を伺っている。

いつ頃まででしょう?川西能勢口駅に側線があったことを記憶していらっしゃいませんか?南側,ジャスコの方です。そこには,ベルトコンベヤがあって,そのベルトコンベヤは馬の首みたいな形をしていて,その馬の口からおそらくはバラストだったと思いますが,それを貨車(この貨車が電動貨車だったようにも思うし,無蓋の小さな貨車だったようにも思います。あるいはその両方かも知れません)に積み込む作業を昼間からやっていたこと,それを小学校の帰り道に眺めていたようなことを突然思い出しました。しかし,その側線はどこで本線と合流していたのでしょうか。あの,悪名高い火打踏切は3線分あったのでしょうか?それとも小花側だったのでしょうか?考え出すと,つじつまが合わないような気もするし...。

地上時代阪急の川西能勢口駅ホームは、最終的に大型車両の増結にできるだけ応えようと東西の踏切りぎりぎりにまで延長されたわけであるが(1982.3.29よりラッシュ時に2本だけ運行された10両編成は、それでもはみ出すことがあった)、前節でも述べたように、かつて小型車両で運転されていた時代、西側にはホームも改札口もなかった。そしてその短いホームの西側は、本線とこの側線に挟まれていたということになるのである。
存在時期や用途について正確には分からないのだが、おそらく昭和20年代頃から昭和40年代前半までここが砂利置き場か何かになっていたと考えられる。文献[5]p.204に、S.24年の油絵として、この場所に砂利のようなものがかなりの高さに積まれている風景画が掲載されているのだが、何か関係があるかもしれない。ちなみにこの絵では、後のジャスコにあたる場所には畑が描かれている。また、その前年(S.23)の空中写真ではまだ側線は認められない(一面畑のように見える)。
本線との合流点は、火打街道踏切の西側であるので、この頃は踏切を3本の阪急の線路が通っていたことになる。

能勢口駅周辺図S36

S.36年 川西能勢口駅平面図(空中写真を元にトレース、渡り線はS.23年の写真を元に書入れたもの=筆者作成)

上はこの側線のあった時代の駅の配線を示す図であるが、矢印(1)がその側線である。S.40年代後半にはホームが地上時代の最終的な長さにまで延長されて、この側線もなくなってしまったわけであるから、筆者などの記憶には全く残っていない。

(2013.10.5 追記) 能勢電社史「風雪六十年」[47]の口絵写真(S.45頃?)を拡大して調べていて気付いたのだが、能勢口下りホーム裏、すなわちこの側線のあったと思われる場所に黄色い無蓋貨車(ホキを小型にしたような工事車両)らしきものの列が写っている。宝塚方がショッピングセンターの建物に隠されているものの、3輌まで確認できる。梅田方の末尾車両は小さいが制動室らしきものを持っている。積載物は確認できない。そして、この宝塚方延長上には線路、つまり上に書いた側線がしっかり写っている。もっと早く気付くべきであった。なお、この側線は、そのまま梅田方へ延長すると地上出口階段の建屋によって阻まれる配置にあるが、明らかにそこまでは到達していない。貨車はそれよりも15m程度手前に停まっている。そのあたりは東西の道沿いに地面が若干せり上がって側線との間でプラットホームのようになっている。(貨車の台車が隠されている。)「馬の首」は残念ながら見当たらない。
火打踏切の方の分岐については、この写真からは、踏切の東端から駅構内に入ったすぐの所に小屋があり、そこで分岐している様子である。当時まだ短かかったホームが始まるのは、踏切から東20m程度の場所である。(距離については、停車中の能勢電50/60型の長さを基準に推定。)
上にも述べたようにS.36年の空中写真では踏切の西で分岐しているのだが、その後火打街道が拡幅(歩道分程度)されたとはいえ、警察署の建物の位置からして道の中心は変わっていないので、分岐点が東に移動したと考えざるを得ない。S.39年やS.42年の空中写真はボケていて分岐点までは判別できないため、今のところこのS.36年空中写真とこの口絵写真とが前後を比較できる唯一の手掛かりである。ちなみに阪急能勢口駅のホーム上屋が延長されたのもこの頃(S.45前後)である。

能勢電と阪急の渡り線

上に示したS.36年には既に撤去されているが、そこからまた少し時代を遡ると、阪急線の北側と能勢電の「池田駅前」に行く線路との間に1本の渡り線があり、国鉄川西池田駅ヤードから阪急の車両を搬入する際、また阪急から能勢電へ車両を貸し出したり譲渡する際ににここを通ったとされている。上図矢印(2)にその位置を示したが、S.36のホームとは位置が重なることでも分かるように、その時代はさらにホームが短かったことがわかる。実際、上図で青色で書いた溝の少し西側で終わっており、その短い上りホームの脇に手動転轍機が設置されていてこの渡り線と合流している様子を、文献[11]掲載の写真で見ることができる。同資料には前述の支線のことと併せて短い記述もあるのでここに引用する。

[昭和30年代前後、] 能勢口も今とは違って、緑にかこまれたホームで、池田車庫の新車搬入用の引込み線が能勢電との間にあった。又、南側にも引込み線があり、土運車が、いつも留置されていたほどで、のどかな風景であった

さらに時代を上って能勢電開業当初となると、能勢電の駅自体もこの位置ではなく、北の方、カーブを曲がった所にあったとされており、阪急との渡り線もそちら側にあったようである。この線を用いて貨物電車の乗り入れなどを行っていたという記述が社史に見られる[47]。つまり阪急と能勢電が三角形に接続していたわけである。

能勢口変電所

川西西友の南側の窓に立って外を眺めてみる。直下に並ぶおびただしい自転車の群れ、人通りの絶えない道路、順に視線を上げていくとその次に目に入るのが能勢口変電所であった。阪急には神崎川や六甲といった歴史的建造物とみなされるような変電所が残っているが、こちらは歴史も浅く、機器も外に配置されていて何の変哲もない小規模の変電所であった。

下記年表にあるように、元は阪急の変電所として設置され、能勢電が間借りするような形となり、後には能勢電の変電所となったようである。ただ、阪急より能勢電に譲渡とされた後も阪急の電力系統図に「能勢口変電所」は存在している(能勢電の変電所のことを指しているのか新設されたのかは不明)。ともかく能勢電能勢口変電所は、今では高架下に移って完全に屋内に入ってしまい、目立たない存在となっている。
ただし、それでは外にあった頃には目立っていたのかというと実はそうでもなく、特異な形態の変圧器や遮断器がむき出して置かれていて周囲から浮いた存在のように思える割には、一般の人が普段気にとめるようなことはまずなかったように思われるし、そういう地味な裏方としての存在こそが変電所に似合っているのかもしれない。(発電所などで見る、室内に置かれ低いうなりを上げる変圧器の存在感は逆に不気味な程なのであるが。)

変電所の役割は降圧(電圧を下げること)と保安であるが、電力会社の普通の変電所の場合が交流を交流に下げるだけであるのに対し、阪急や能勢電など直流方式の電鉄会社の変電所の場合は直流に整流する設備が必要になる。能勢電でも昭和初期設置のの多田や山下の変電所では水銀整流器を用いていたが、この能勢口変電所にあったのは近代的なシリコン整流器であったようである。ところで水銀整流器が実用化される大正末期よりも前、明治・大正時代にはどのように整流していたのか、ふと気になったので調べてみたが、モーターに発電機を接続する方法や、回転変流器(ロータリーコンバーター:直流機の回転子コイルに交流を流してブラシから整流された直流を取り出す機械的な双方向変流器)方式が主流であったようである(後者は交通科学博物館など何箇所かで保存されているとのこと)。

能勢口変電所関係年表[88][48]

S.37.5.8.  阪急能勢口変電所新設
S.44.8     宝塚線1500Vに昇圧
S.44.      能勢電が同変電所内に600V専用シリコン整流器2000kW1台を新設・借用
S.59.10.12 阪急より同変電所を能勢電に譲渡

能勢電能勢口変電所

現在の能勢口変電所。阪急の高架下建物内に収まっている。(2002.3)

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