上り 伊丹・尼崎・大阪方面 下り 篠山口・福知山・米子方面 551 (422D) 6-- (706レ 寝急だいせん3号)
29 (822レ)
40 (732レ)14 (721レ 出雲市行) 728 (424D)
48 (734レ)15 (423D) 807 (442レ)
47 (736レ)
-- (3420D 快速)-- (5D 特まつかぜ1号)
24 (735レ)
34着 (821レ) 938 (738レ)
-- (712D 急丹波1号)-- (711D 急丹波1号)
20 (443レ) 1052 (426D) -- (701D 急だいせん1号)
40 (723レ 米子行) 11-- (714D 急丹波2号) 16 (445レ) 1229 ( 722レ 鳥取始発)
-- (716D 急丹波3号)-- (7D 特まつかぜ2号)
44 (725レ 鳥取行) 1359 (444レ) -- (3421D 快速) 14-- (702D 急いでゆ) -- (703D 急いでゆ/丹波2号)
24 (425D) 1538 (740レ)
-- (3422D 快速)-- (713D 急丹波3号)
38 (737レ) 1617 (824レ)
26 (446レ)
-- (8D 特まつかぜ1号)37 (427D) 1733 (742レ 香住始発)
59 (430D)-- (715D 急丹波4号)
46 (739レ) 1844 (724レ鳥取始発) -- (3423D 快速)
30 (741レ)
56着 (823レ) 19-- (704D 急だいせん1号)
-- (718D 急丹波4号)09 (447レ) 2029 (726レ 浜田始発)
-- (6D 特まつかぜ2号)-- (717D 急丹波5号)
28 (743レ) 2132 (744レ 豊岡始発) 18 (429D)
-- (705レ 寝急だいせん2号) 2247 (434D) 14 (745レ) 2327 (433D)
1977年7月の川西池田駅時刻表(当時の時刻表より再構成・臨時列車は除く)
普通列車について、青色は篠山口発着、緑は福知山発着、
茶色は三田発着、白抜きは尼崎港線
改札口は紫色か何かで塗られた木組みのどっしりとしたもの。列車の来る時刻が近づくと、改札係の駅員が出て来て、「X時X分○○○行きの改札を始めます」などと待合室の乗客に呼びかけながら改札を開け、鋏を鳴らし始める。改札の真上には回転式列車表示器(次の列車の時刻と行き先を書いた字幕を収めた金属箱)が上り・下りごとに設置されていた。列車が出ると改札が閉じられ、この列車表示器の下に出ているハンドルをぐるぐる廻して表示を進め、駅員は消えていく。そして待合室には再び静寂が訪れる。
改札を出て左には、昔はどこにでもあった信号梃を扱う小屋(というより駅舎の一部)、そして便所が並んでいた。英語表記がLAVATORYとあったのが今思えばいかにも国鉄という感じである。その先は屋根もなくなるが、側線との境が植え込みになっており、それに沿って桜が数本並べられており、春毎に乗客を見送っていた。小振りの桜であったが、どこかへ移植されたのであろうか。
桜と工事用の小型機関車 (1977頃)
上りホームに並ぶ桜 (1977頃)
改札を出て右側に跨線橋があり、福知山方面の列車はこれを渡った島ホーム(2番線)から出ていた。この跨線橋支柱は鋳造の年代物で「鐵道院」の銘があり、現在も川西池田駅の改札横に展示されている。大正4年(1915)製と記されており、古レール利用が多くなる以前、最初期の様式(明治後期〜大正初期)に属するものとわかる。残されたこの一組は、渡り廊下・階段上部を支えるものと同じ形状ではあるが少し短くて、階段の上り口を囲んでいたものと分かる。
保存されている跨線橋支柱 (川西池田改札横 2000.6.11)
跨線橋支柱の銘 (2000.6.11)
右は「横河橋梁製作所」、裏に「大正四年」と製造年が記されている。
跨線橋を渡らずに進むと荷物扱い事務所との通路を右に見つつ、踏切に出るスロープでホームは終わる。この長いホームに上り列車が入るのを改札の手前からよく眺めたものだった。DF50の巨大で偏平な顔は、朱色の動く壁のようだったし、スチームを上げる長大な客車は茶と青のまだらの蛇のようだった。現実にあった光景とはとても思えないのである。
古いホームにはよくあることであるが、ホームの西方に線路に降りる段が設けてあり、跨線橋を渡らずに線路を直に横断して対面ホームへ行くこともできた。とはいえ明治時代ならいざ知らず、現代の乗客がこれを使用することは危険過ぎるわけで、もっぱら駅員用、それも特に急ぐ場合か、荷物を運ぶ場合のみに使用されていたと記憶する(蓋があったかも知れない)。
その後判明したことであるが、1番ホームと2番ホームを結ぶ渡り板が2箇所(跨線橋の前後の位置)に敷かれていたものの、そこに降りるための階段は存在しなかったようである(1番ホームについては写真で確認。2番ホームについては写真では未確認)。ただし、このホームが開業以来同一のものであり続けたかどうかは不明であるので、遠い過去の状況、例えば大正4年以前の跨線橋がなかった頃のことについては知る由もない。なお、隣の中山寺駅には階段やその蓋が存在していた。(大阪〜宝塚間で跨線橋のなかった駅はこの中山寺駅と北伊丹駅のみで、後者はS.19年新設の比較的新しい駅で1面島式ホームであったため当然である。)
「におい」はなかなか保存して記録に残すことのできないものである。近代化というものは一次的であれ副次的であれ「におい」の追放という一面を持っていると思う。当時の駅には独特の匂いがあった。蒸気機関車時代から蓄積された煤煙のにおい、制輪子が削ぎ落とす鉄の匂い、木とニスの匂いから、客車や隣接する便所の流す悪臭まで、判別し難く一体となった匂いに満ちていた。
©H.Morita
旧駅舎入口 (1975.7)
電話ボックスは「丹頂鶴」型からガラス張りに変わった。住所表記は栄根2丁目7である。
駅舎は国道176号線に面していたが、その前に小さな広場があり、わずかに駐車スペースのようになっていた。その正面(北側)は、食堂(後に喫茶店)と煙草屋に挟まれるように花屋敷に上る急な坂道が伸びていた。煙草屋と坂に挟まれた小さな場所に自転車預り所があったと言われている。また煙草屋の東隣には、S.53までは派出所があった。反対に食堂の西隣は「センターケンネル」という犬舎であった。
自転車預り所の名残り (2000.6.11)
民家の一部であるが、中央に見える木戸の中で自転車を預かっていたと言われて
いる。
広場の東側には、旧式の便所と、柵に囲まれた雑草の生い茂る植え込みがあり、西側は駅舎を左、阪急バスの停留所を右に見つつ奥の手荷物受所に至る小道が延びていた。
©H.Morita
駅前広場 (1975.7)
右側が駅舎。左には派出所が見える。国道を渡った右、タバコ屋の隣で、がらんとした平屋であった。
©H.Morita
手荷物扱事務所 (1975.7)
事務所の向こう、右手がホームにあたる。跨線橋も頭を出している。左は空き地だったが、国鉄コンテナが1個放置されていた記憶がある。背後は踏切への道との間に詰所か何かの建物があったと思う(通信掛詰所という証言がある)。
バス停には半円状のロータリーがあって国道から入ってきたバスが折り返して出られるようになっていた。待合所は建物ではなく藤棚の下、風流なものであった。S.53年の統計によると、バスは1日32便が運行されていたとある。
©N.Morita
阪急バス停「川西池田駅前」 (1970年代後半?)
駅正面の食堂の辺りから見たところ。バス停に向かって右側が自転車置き場になっているように見える。ここにも自転車置場問題があったのだろうか。
赤いつつじの花と空色の柵が印象的。
このバスの路線は、満願寺線と呼ばれ、池田市から川西池田・満願寺を経由して愛宕原ゴルフ場までを結んでいたものである。「川西池田」、古くは「池田」の駅名から池田市の中心と勘違いして降りた乗客を池田まで運ぶ役割もあったのであろうか。北方面へは「花屋敷」「豆坂口」、東方面のバス停は「日通前」「川西能勢口」「呉服橋西詰」と続いていた。(なお、満願寺行きは後に雲雀丘花屋敷駅発になり、しばらくは池田と川西池田駅を結ぶ路線も残っていたことも1980年頃の道路地図から読み取ることができる。)
駅を一旦出て国道沿いに西に歩くとすぐに南花屋敷方面へ入る脇道があり、踏切に出た。この踏切は、資料(昔の市議会だより)によるとどうも「釜割谷踏切」と呼ばれていたようである(釜割谷は、北側の谷になった場所の旧字である)。
これも昔の駅にはよくあることだが、踏切脇とホームとが柵も何もなくつながっていた。通行禁止の立て札があるだけであった。踏切を渡ると真っすぐ行く道の他に左側の小屋のような建物(鶏を飼っていた)と線路の間を通る私道らしき道もあった。どちらを通っても目の前は澱んだ寺畑前川である。この踏切は、国道側と南花屋敷を結ぶ連絡路で重宝されていたが、新駅設置に伴い多少の悶着があったものの結局塞がれてしまい、代わりに線路を跨ぐ通路が新設された。一般道路の方は「アルテア橋」、それに付随した歩道橋には「ウィーバー橋」という愛称が付けられてる。今この歩道橋を渡れば踏切があった場所の南側に出るが、そこはいかにも塞いだといった感じのどん詰まりになっている。
国道に戻り西に行くと、踏切の反対側に寺畑2丁目・雲雀丘に至る急な坂道がある。最近まで車がすれ違えないような細い道だったが、拡幅されたようである。
さらに国道沿いに宝塚市との境界近くまで来ると、もう一つの踏切「一本松踏切」がある。この踏切は現存しているが、国道側に逃げがないため昔から非常に危険な踏切として有名だったそうである。
©H.Morita
釜割谷踏切よりホームを望む (1975.7)
手前左の梯子は、上り場内信号機であろうか。
ホームのスロープの前に立ち入り禁止の立て札が見える。
停車しているのは下り気動車列車と尼崎港線の客車、その向うに単機移動中のD13が見える。
駅移転直後の川西池田駅前交差点 (1981)
東方に移転され建物は撤去された。駅前広場は目隠し板で塞がれているが、枕木の柵と植え込みはまだそのままである。
旧川西池田駅は、ほとんど開業当時の姿のまま使命を終えたように見えるが、記録(日本国有鉄道記念会「日本の駅」)によると2回部分的に改築されているようである。それによると、設置は明治30(1897)年12月12日、第1回部分改築が大正4(1915)年、第2回部分改築が昭和5(1930)年ということである。この部分改築というのがどういう内容であったかは不明であるが、第1回の時期が跨線橋に記されている製造年と一致することは、注目すべき所である。
また、2・3番ホームの方にも少し長めの上屋が付いている写真が残されているが[108]、これには量産形のDD51が一緒に写っているので少なくとも1965年頃までは存在していたことが分かる。(2013.10.14修正:リンク先には当時「昭和40年代」と書かれていたためこのように判断したが、拡大してよく見るとこれは新駅移設の頃の写真であり、仮設の屋根であることに気付いた。つまり、昭和54〜55年である。書いた当時も、まだDD51が投入されるには早すぎる時期だし、上り列車が2番線にいるし変だとは思っていたのだが…)
また、大正期の池田駅平面図[49]でも長い上屋が描かれている。しかしながら、1966年の住居表示地図を見ると撤去されたらしく、もっと短い建築物が描かれている。それに当たるのかどうかわからないが、末期には小さな待合所(屋根とベンチ付き)がある以外は雨ざらしであった。もっとも、大阪寄りには小さな屋根だけの雨除けもあった。これが何の目的で設置されていたのかは不明であるが、尼港線貨車の積み荷を一時置くための雨除けと思われる。
現在の寺畑前川 (1999.8.8)
タイムスリップしたような駅周辺の黄昏。ちょうど真中の奥が旧駅の位置にあたるが、この角度から見ると左右の中層建築物以外は昔とそう変わっていない。歩いていくと赤錆びた跨線橋が見えてきそうな…