■ 川西の鉄道略史     [目次ウ ィンドウ]   [目次]

駅名板 福知山線・阪急電鉄・能勢電鉄の歴史に関する参考書については、既にいくつか優れたものが刊行されており、筆者の知識も大部分それらに依っているので、詳細はそちら(参考文献の項)を参照していただくことにし、ここでは概観的に振り返ってみたい。

年表

鉄道黎明期より現在までの川西を中心とした年表

福知山線の前身は明治24年開業の川辺馬車鉄道会社まで溯ることができる。明治24年に尼崎〜伊丹を開業し、名前の通り馬車を動力として客貨を運搬していた。この馬車鉄道は、伊丹から小戸村に至る線と宝塚を経てさらに三田まで向かう線の計画を持っていたが、動力強化の目的から発展的解消する運びとなり、開業から2年後の明治26年には新たに発足した摂津鉄道に買収された[4][12]。川辺馬車鉄道が線路幅1067mmで後の国鉄と同幅であるのに対し摂津鉄道は762mmであり、一部で軽便鉄道と称されるゆえんである。鉄道院文書[76]に綴られている「起業目論見書」より摂津鉄道の概要を次に示す。

摂津鉄道社章 摂津鉄道株式会社

線路:尼崎町ノ内尼ヶ崎町に起線し(後の尼崎港の位置)、阪神間官設鉄道神崎停車場西位に至り伊丹町を経て川西村ノ内小戸村に至る。
資本金:24万円 (1株50円×4800株:株主一覧添付)
建設予算:16万9千円(詳細表添付)
幅員:2尺5寸=758mm(2ft6in=762mmと等価か?)
尼崎・伊丹間既成線路(道床幅?):在来のまま1yd30in=1676mm
伊丹・池田間及び伊丹・生瀬間新設線路:1yd25in=1549mm(生瀬までという計画を持っていた。)
レール:25lb/yd, 30lb/yd
車両:機関車は6.5ton以上7.5ton以下とする(1Bタンク機関車の図面添付)。客車は「日本普通鉄道客車」と類似するもので、内部は幅5尺長さ4尺とする。定員は下等18人、中等16人、上等12人とする。貨車は箱車及び無蓋の両種で積載量は3〜4ton。
駅:尼崎・大物・長洲・塚口・伊丹南口・伊丹

摂津鉄道も数年経たずして阪鶴鉄道に買収され、この会社により明治30年に尼崎と宝塚を結ぶ区間が開業している。阪鶴鉄道は、摂津鉄道が単体で発展した鉄道ではなく、柏原出身の政治家田艇吉(明治21年頃より阪鶴鉄道を構想していたといわれる)が中心となって、大阪の資本家と摂津鉄道の出資者を融合・調停する形で設立した鉄道である。[81][84]

川西池田駅はこの時、「池田」の名称で栄根の地に開業しており、以後昭和56年の移転まで83年のあいだ同地に存在していたことになる(*注)。かなり離れた「池田」の地名を掲げているのは、当時川西のこの辺りが昔ながらの農村でしかなく、より大きな町である池田の周辺として見られていたことに起因する。川西市の要請を受けて「川西池田」に改称されるのは、昭和26年まで待たねばならない。つまり、この駅の歴史の半分は「池田」駅としてのものであったわけである。もっとも、市史の研究によると、阪鶴鉄道として路線が定まる以前には、池田よりの呉服橋西詰に停車場(終着駅)があったが、宝塚方面へ延伸する際に路線が栄根寄りの曲線となり、小花の現川西小学校の辺りの仮設駅を経て栄根に落ち着いたというから([4]p.196)、宝塚を経て山陰を目指す阪鶴鉄道に買収されなければ、「池田」駅は川西寄りに移動することもなく実質的に池田の駅という役割を全うし、「川西」池田駅も存在しなかったかもしれない。

(*注)実際には昭和55年9月3日に現在の位置に仮移転して営業を開始しているため[ ]、また月単位で計算すると旧駅での営業期間は正確には82年と9ヶ月間(1897.12.12〜1980.9.3)ということになる。

阪鶴鉄道 阪鶴鉄道株式会社

路線:大阪府下西成郡曾根崎村より兵庫県下摂津国有馬郡三田町・丹波国多紀郡篠山町近傍・氷上郡柏原町近傍・京都府下丹波国天田郡福知山町何鹿郡綾部町を経て丹後国加佐郡舞鶴港に至る(実際の営業区間は尼崎・福知山間)
資本金:400万円 (1株50円×80000株)(設立時)
建設予算:400万円(内訳あり)
軌条及び軌間:軌条形状は平底で重量160lb/yd、軌間は3ft6in=1067mm(明治28年:工事方法書)
車両:機関車は8輪タンク機関車8両、シリンダー径14in渡20in=356x508mm、動輪径4ft4in=1321mm、ボギー輪径3ft1in=940mm、前後軸距19ft6in=5944mm、総重量34ton7cwt4lb=34.9t、タンク容量1000gal、石炭箱容量1ton、蒸気圧力140lb/sq_in=9.85kg/sq_cm。客車貨車緩急車土運車等の合計は158両で、内訳は、客車が上中等混成28人乗3両・中等車30人乗3両・下等車50人乗30両・緩急車40人乗6両、屋根付貨車4〜10ton積80両、屋根付緩急車5ton積7両、土運車5ton積25両、同緩急車5ton積4両(同上)
(実際に開業時に導入した車両数はこれよりも少ない。また阪鶴鉄道の所有した機関車でもっともこれに近い仕様なのはPittsburghの13号機であるが、8輌も保持しなかったし、シリンダー径がかなり異なっている。)
停車場は神崎・塚口・伊丹・池田・中山寺・生瀬・三田・広野・藍・古市・篠山・谷川・生野・柏原・黒井・市島・下竹田・福知山を新規設計の予定(同上)
実際の停車場(明32年)は、尼崎・神崎・塚口・伊丹・池田・中山・宝塚・生瀬・武田尾・道場・三田・広野・相野・藍本・古市・篠山・大山・下瀧・谷川・柏原・石生・黒井・市島・竹田・福知山南口
機関庫・分庫は、池田・三田・福知山南口の3個所

この阪鶴鉄道は、福知山線として大阪〜福知山を結ぶ幹線として長距離輸送に貢献したことの他に、川辺郡という地域に大阪の資本を結びつけ、またその重役(相談役の一人であった小林一三を含む)が辞して箕面有馬電気軌道、後の阪急電鉄を作る母体となったわけで、現在までの阪急電車の川西市への貢献を考えあわせると、川西にとって深い意味を持つ鉄道であったと言える。(なお、阪鶴鉄道本社については後述

わずかに遅れて大正2年、能勢口と妙見を結ぶ能勢電も開業する。笹部以北が大阪府にあることを除き、川西市部を南北に貫く、まさに川西の鉄道の誕生である(阪急と能勢電は法律上鉄道ではなく軌道だったが、ここでは便宜上鉄道と呼ぶ)。能勢電は今も阪急の車両を使用していることから阪急の子会社のように思われているが、設立時は全くの別会社であり、その後阪急が株を取得し、現在は阪急グループの一員となっている。

大正〜昭和期の川西の鉄道は、阪急=能勢口駅については「躍進」、能勢電については「苦難」、省線・国鉄福知山線=池田駅については「衰退」と各鉄道でくっきりと明暗を分けることになる。阪急の場合は良く知られているように住宅地建設など経営戦略の成功といわれている。能勢口周辺も駅を核として徐々に川西の中心機能を形成するようになっていった。その割には能勢方面の人口がそれほど伸びず、これが能勢電の経営に影を落としたとされている。阪急には能勢口駅ができるよりも先にもう一つ花屋敷という駅が能勢口の西、福知山線池田駅北方に存在していたが、この辺りはそれほど栄えることもなく、昭和37年には西隣にできていた雲雀丘駅と統合された。なぜ能勢口と花屋敷で明暗が分かれたか明確な理由は特定できないが、地形的な理由(自動車が少ない時代に花屋敷のような丘の上では商売はやりにくかったであろう)や池田への近さ(能勢口は池田方面から徐々に繁栄中心が西に移って来た−−辻の町役場・鶴之荘住宅地・新町市場から能勢口へ−−)があったのではないかと推測される。この花屋敷駅に関しては、さらに北に行った山中に温泉・遊園地ができて日本発のトロリーバスがこの駅から運行されたこと[74][4]、そして雲雀丘駅との統合の時には地元寺畑で猛反対が起き、1年ほど普通のみ停車する仮駅として残されたこと[4]など話題には事欠かないのだが、現在はただ閑静な住宅街の片隅であって、何の名残も見せていない。今となってはこのような近距離に駅が設置されていたことの方が不可思議に思えるのみである。

一方、福知山線については、遅れて官鉄となった山陰線が本線格として福知山を東海道に結び付けたことが衰退の原因ともされているが、川西地域に限って言えば、やはり阪急との競争に敗れた、または最初から競争する意志がなかったという所ではないだろうか。伝統的に官鉄は民間事業とは一線が引かれており、商店誘致などありえない話であった(注:ただし、戦後は「民衆駅」など、法規も事情も変わっているのだが、その影響が波及していたとは考えられない)。駅を中心に町を盛り立てることに関しては、阪急のような多角経営企業の独壇場といっても過言ではないだろう。結果的に言って、川西池田駅前といえばその末期まで、煙草屋と食堂(喫茶店)が1軒ずつあるのみで、商店街などというものとは縁がなかった。(現在でもやはり伝統の所為か川西池田駅の周辺、国道より南側はあからさまな繁栄とは縁が薄いようである。)

明治・大正・昭和と経済が成長する時代にあっては、ある地域が発展し、飽和状態になると新しい地域がより大きな資本を投入して活性化され、中心を成り代わるという循環は、消費者の自然な選択の結果として避けられないものであろう。旧中心地域としてはさまざまな防御策を施し、それがある程度の市民運動ともなれば計画を立てる行政も考慮するのであろうが、旧川西池田駅周辺についてはそのような運動の母体となるほどの成長は達成されず、すべて十年一日の如しであったようである。阪急花屋敷駅の廃止反対運動は唯一の例外であったが、結局1年ほど廃止が延期されただけで、本質は何も変わらなかったといえよう。

ここで、旧池田駅周辺地域の立場・性格をまとめてみたい。

昨年(1999年)JRでは、福知山線100周年ということで大々的に記念行事を行ったようであるが、阪鶴鉄道が福知山まで開通してから100年という解釈なのであろう。また、1979年にも80周年を記念して「阪鶴鉄道号」が福知山〜篠山口〜大阪〜京都〜福知山〜篠山口という経路間で運転された記録がある[21]

終戦直後の昭和21から4回にわたって、全日本毎日マラソン大会がこの池田駅を折り返し地点として行われたことは特筆に価する。現在は「びわ湖毎日マラソン」と名前も場所も変わっているが、50年以上続く日本でも代表的なマラソンの最初のコースに選ばれたというのは、たいへん名誉なことであったと思う。詳細は以下の通りである[86]

マラソン

省線池田駅を折り返し点として行われた第1回全日本毎日マラソン大会(現在のびわこ毎日マラソン)を伝える記事
毎日新聞(大阪)昭21.10.21より
詳細画像(377Kbytes)

その他、落穂拾いのような事項となるが、1966年頃に川西池田駅にてテレビドラマの撮影が行われたことがあった。当時見学した人の証言によると、長谷川稀世が来ていたこと、「虞美人草」というタイトルであったこと、テレビドラマらしいことなどがわかったので、それらのデータに基づいて検索したところ、以下の番組が相当するようである。

TV映画「虞美人草」
昭和41.10.20〜42.2.23・NET系・毎週木曜21時より放映(30分枠)
演出:久松静児
脚本:若尾徳平
出演:長谷川稀世・久保明・上原謙・花柳小菊

当時でも明治の停車場の面影を残しているということでロケ地に選ばれたのであろうか。しかしそれだけの理由なら他にいくらでも場所はあったはずである。いずれにせよ原版が残っているかは不明で、実際に見て何が写っているか(または写っていないか)を確認するのは非常に困難である。何かの手がかりとして今後のためにここに書き留めておく。

戦前の池田駅 ©H.Morita

戦前の池田駅 (昭和10年代  寺畑前川越しに北を望む)
駅名表示が「池田」である。停車中の貨物列車の車番は、左より、ワフ21?49、ワフ4235、トラ1114?と判読できる。右中ほどにはたくさんの枕木が積まれている。

新線切替直後

新線切替直後 (1981 側線のあった辺りから西を望む)
新線を行くDD51牽引の客車列車を見送る。旧駅舎周辺は整地されている。道床の低い手前側の線路は新しい側線で、最も手前のものは架線もなくこの撮影地点辺りで終わっている。

現在の川西池田駅前

現在の川西池田駅前ロータリー (2000.6.11)
新しい橋上駅舎は機能的である一方でちょっと風情に欠けるが、広い旧ヤードを再利用した駅前広場に目を移すと、ゆったりとして意外なほど緑にあふれている。駅の南側は水田も残るのどかさである。

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