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紺地さんという方からメールにていろいろ情報をお寄せいただきました。極めて詳細な内容で、他のご来訪者の方々にとっても興味を惹かれる点が多いのではないかと考え、許可を頂いた上でまとめて転載させていただきました。ご協力に感謝申し上げます。(2001.10〜2001.12)


はじめまして、今日はじめて、ホームページを見ました。私は、川西市在住の33歳です。
旧国鉄川西池田駅に、興味、愛着があり、一時期、Nゲージで再現しようと、資料収集した時期がありました。また、はじめて鉄道写真を撮影したのも、川西池田駅でした。(駅本屋の反対側、栄根より、貨物ホーム、ヤードを撮影。)しかし、資料がそろわず模型化は、断念しました。が、今日、このホームページを見て、驚きました。「ものすごい」の、ひとことです。
能勢電も、身近な鉄道なので、300形〜現在(阪急8000系)まで、カメラに収めてます。もちろん、能勢口〜国鉄前間の、51形も撮影してます。
これからも、ホームページの発展に、期待してます。

はじめまして。「鉄道の町川西」の森田敏生と申します。
このたびは拙ページをご覧いただき、またご感想までお寄せ下さいまして、 まことにありがとうございました。
現在の川西の発展には目を見張るものがありますが、あの時代にもまた 強烈な魅力があったなぁ、という気持ちで細々と始めたサイトなのですが、 在住の方からメッセージを頂けると喜びもひとしおです。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 こんばんは、先日は返信のメールありがとうございました。
改めてページを読み返したところ、何点か気になる箇所がありましたので、メール させてもらいます。(が、私の思い違い、間違い、また既に、判明している場合もあ るかと思います。参考になれば幸いです。)

  1. 「川西池田駅を通り過ぎた国鉄車両」の、DD13の項目
    〜なお、DD13はDE10などの後継機に〜とありますが、私は昭和58年 11年16日塚口駅にてDD13牽引の貨物列車を撮影してます。  福知山線の貨物取り扱いが、昭和59年2月1日に廃止になっているので、最後ま で使用されたと思います。
  2. 同じく、旧型客車の項目
    鉄道唱歌は、485系、24系などの特急車で、旧客は別のオルゴールだと思 いますし、聞き覚えがありません。
  3. 同じく、新型客車の項目
    〜電化後JR初期の〜とありますが、JRは1987(S.62)年からであ り、また、宝塚電化は1981(S,56)年、 城崎電化が、1986(S,61)年ですから、〜電化後JR初期の〜の表現は いらないのではないでしょうか。また、50系客車についてふれられてませんが、 1 2系置き換え以前の1984(S,59)年2月より運用されてます。 「鉄道ファン」1984−6号(bQ78)によりますと、734・742・737 ・745列車の2往復で、734・745列車にはスユニ50が連結されてたようで す。
    12系への置き換えですが、1985(S,60)年3月14日からで、城崎電化 まで運転されてます。(「鉄道ファン」1985−12号(bQ96)に、 12系が60−3改正で福知山線の定期列車に運用され、車両不足 になり20系が臨時列車に使用された。と、あります。)
    〜70年代の夏のある日、川西池田の待避線に臨時列車の12系客車が止まってい た〜
    とありますが、これは運転停車ではないでしょうか。単線では急行といっても臨時列 車で、定期列車がある程度優先されるはずです。
  4. 同じく、貨車の項目
    これは写真や資料がないのですが、私の記憶に残っているのが、 ホキ800が川西池田駅常備だったことです。宝塚電化で川西池田駅にヤードがなく なってから、宝塚駅常備になったと思います。

長くなってきたので、続きはまた後日、送信します。

こんにちは。森田です。
興味深い御指摘&情報をお寄せいただきありがとうございます。

この川西池田を通り過ぎた国鉄車両のページは、その後いろいろ書き足したいことも 増え、分割した上で補筆したいと考えていましたが、ついつい後回しとなってしまって います。特に気動車の項、準急型とその格下車や58系の使いまわしなどいろいろ 記述不足が目立つなぁと感じております。 今回頂いた、独自の情報、参考文献を含むご指摘も、ぜひ参考にさせていただきたいと 思います。

以下、いくつか個別の件について、コメントさせていただきます。

>  2.同じく、旧型客車の項目
>    鉄道唱歌は、485系、24系などの特急車で、旧客は別のオルゴールだと思
> いますし、聞き覚えがありません。

その通りで、ご存知と思いますが旧客のは「ハイケンスのセレナーデ」という曲 (を編曲した)オルゴールでしたね。

>  3.同じく、新型客車の項目
>    〜電化後JR初期の〜とありますが、JRは1987(S.62)年からであ
> り、また、宝塚電化は1981(S,56)年、
>   城崎電化が、1986(S,61)年ですから、〜電化後JR初期の〜の表現は
> いらないのではないでしょうか。

12系の定期列車での運用時期については曖昧に書いていますが、ご指摘のように 年代の誤りもあり、訂正したいと思います。どうもありがとうございました。 また、12系・50系に関して挙げていただいた資料についても確認しておきます。 (正直なところ、駅移転以降の資料はほとんどノーマークです。)

>  〜70年代の夏のある日、川西池田の待避線に臨時列車の12系客車が止まってい
> た〜
> とありますが、これは運転停車ではないでしょうか。単線では急行といっても臨時列
> 車で、定期列車がある程度優先されるはずです。

その可能性が高いです。ある期間毎日同じ列車が長時間停車していたという記憶だったら、 そのようにほぼ断定して書けたのですが、残念ながら1回のみの記憶なので、断定までは できないかな、と思っています。
当時のダイヤも1枚あるのですが、季節違いなのか「但馬ビーチ」などは残念ながら 記入されていません。

>  4.同じく、貨車の項目
>   これは写真や資料がないのですが、私の記憶に残っているのが、
> ホキ800が川西池田駅常備だったことです。宝塚電化で川西池田駅にヤードがなく
> なってから、宝塚駅常備になったと思います。

これは今まで全く気付いていませんでした。確かにヤードによく留っていたようですが、 常備駅とは思っていませんでした。資料が見つかれば調べてみます。
今は同じ役目のホキ800が尼崎駅常備になっているようですね。(いつまであるか…)

たいへん詳しい分析を頂き、再度感謝申し上げます。 どうぞこれからもよろしくお願いいたします。

こんばんは。早速の返信ありがとうございます。
今回もひきつづき、気づいた点を中心に書かせてもらいます。

  1. 「晩年の旧川西池田駅と周辺探索」の項
     〜古いホームにはよくあることであるが、〜の最後に(蓋があったかも知れな い)と、書かれてますが、 手元にある写真(釜割谷踏切より大阪方の撮影)で見るかぎり、蓋をするような切り 欠きがみあたりません。 ステップのような物が写っていて、ホーム側面に色が塗られてます。(白黒なので色 は不明。たぶん黄色だと思う)
     また、荷扱い所のあたりには踏切のような通路があります。(ここにもホームに色 が塗られてます)
  2. 「おわりに」の項
      〜待合室の方はかなり憶えているのだが〜のところでの不明箇所について。
    • 改札口の左右にベンチ(3人掛け程度の長いす)があります。
    • 事務室の出入口ですが、残念ながら見当たりません。推測ですが、跨線橋入り口 の手前で事務室が一段引っ込んでますが、ここの側面ではないでしょうか。 (上記写真では影になっており不明瞭)   タブレット閉塞の場合、閉塞装置がホーム寄りに設置してあり、この位置が取り扱 い上、出入りしやすいと思うのですが。
    • 信号テコはホーム側面角穴より鉄索が改札左手ホーム上屋の端あたりから出てい るので、駅本屋の横だと思います。
    • 跨線橋の内側1番線に、下り用の中継信号機があります。(これは塚口〜宝塚間複線電化完成記念入場券、3枚組の内の1枚に旧川西池田駅の写真が使用されてお り確認できます。)
    • 1番線宝塚寄りホームの端、スロープ状の部分に通行禁止とペンキ書きされてま す。(ホームの下から見て左半分に縦書き。)
    • 荷物用の台車も数台写ってます。また、2番線(島式ホーム)にも荷物を載せた 状態で写ってますが、島式ホームの宝塚寄りのスロープ状の部分は砂利のままで (当然1番線から2番線まで台車を押していける状態でない)この台車は、2番線 専用だったのでしょうか?

 先日返信していただいたホキ800の件ですが、尼崎で見覚えがありません。 書類上の配置ようです。少々前ですが1995(H,7)年、阪神大震災の時に、 宝塚にてホキ1049.1052が被災、脱線してます。(鉄道ファン’96‐7

 今日はこの辺で、つづきはまた後日送信させてもらいます。

 こんばんは。前回のメール(11/18)読んでいただけたでしょうか? 今回は、前回の補足を書かせてもらいます。
先日、久しぶりに川西図書館に資料探しにいってきましたところ、旧駅の写真が「広 報かわにし」に掲載されてるのをみつけました。
写真は小さく(4p×6.4p)白黒で、1番線トイレ付近から宝塚方の撮影でホー ム上屋の内側の様子(柱の組み方)もわかります。
また、ホームの切り欠きらしきものが2番線にあるように見えるのですが、向かいの 1番線にはなさそう(に写ってみえる)です。ここにも線路内に通路があります。

それでは今日はこのへんで、またメール送ります。

こんにちは。森田です。 いろいろと貴重な情報をご教示いただきありがとうございます。

> 5.「晩年の旧川西池田駅と周辺探索」の項
>   〜古いホームにはよくあることであるが、〜の最後に(蓋があったかも知れな
> い)と、書かれてますが、
> 手元にある写真(釜割谷踏切より大阪方の撮影)で見るかぎり、蓋をするような切り
> 欠きがみあたりません。
> ステップのような物が写っていて、ホーム側面に色が塗られてます。(白黒なので色
> は不明。たぶん黄色だと思う)
>  また、荷扱い所のあたりには踏切のような通路があります。(ここにもホームに色
> が塗られてます)

板を張った通路ということで言えば、写真でみると跨線橋降り口の手前(事務室前)に 1つと、跨線橋の向こう(荷扱所前)に1つが確認できますね。
前者には確かに切り欠きはないようですが、後者にはあるように見えます。
ステップとおっしゃるのは多分壁面に付けるコの字型のものですね。
ちなみに文中に書いたのは後者の方です。持ち上げ式の蓋については、安全上の 配慮から多分(中山寺駅のように)あったかな、という程度で、 存在については確認できていません。

> 6.「おわりに」の項
>   〜待合室の方はかなり憶えているのだが〜のところでの不明箇所について。
>  ・改札口の左右にベンチ(3人掛け程度の長いす)があります。
>  ・事務室の出入口ですが、残念ながら見当たりません。推測ですが、跨線橋入り口
> の手前で事務室が一段引っ込んでますが、ここの側面ではないでしょうか。
> (上記写真では影になっており不明瞭) 
>  タブレット閉塞の場合、閉塞装置がホーム寄りに設置してあり、この位置が取り扱
> い上、出入りしやすいと思うのですが。

事務室の出入り口については、改札口に向かって左のベンチのさらに左に窓一つ 置いて開き戸(後日訂正:引き戸)があったという話があって私もそうではないかと思っているのですが、 写真では不鮮明でよくわかりません。
閉塞装置の置き場所は、ご指摘のように事務所の西の端、跨線橋の口あたりと 思いますが、普通見通しを良くするために、どちらかというと出っ張っているものなのに、 川西池田の場合は一段引っ込んでいるようで、この辺は不思議に思っています。 引っ込んでいる事務所西側部分は、休憩室・湯沸所・物置等だったという可能性もあり、 (その場合は閉塞装置は引っ込んでいない部分の端にあったかもしれません。) また、一般的な駅舎の配置もそういうものが多いということです。
あと、西側側面に勝手口のような開き戸があったと思います。

>  ・跨線橋の内側1番線に、下り用の中継信号機があります。(これは塚口〜宝塚間
> 複線電化完成記念入場券、3枚組の内の1枚に旧川西池田駅の写真が使用されてお
> り確認できます。)

なるほど、電燈3燈のものですね。持っていたのですが気付きませんでした。

>  ・1番線宝塚寄りホームの端、スロープ状の部分に通行禁止とペンキ書きされてま
> す。(ホームの下から見て左半分に縦書き。)
>  ・荷物用の台車も数台写ってます。また、2番線(島式ホーム)にも荷物を載せた
> 状態で写ってますが、島式ホームの宝塚寄りのスロープ状の部分は砂利のままで
> (当然1番線から2番線まで台車を押していける状態でない)この台車は、2番線
> 専用だったのでしょうか?        

そんな感じですね。線路をまたいでの荷物移しは、手で持ってやっていたんでしょうね。

>  先日返信していただいたホキ800の件ですが、尼崎で見覚えがありません。
> 書類上の配置ようです。少々前ですが1995(H,7)年、阪神大震災の時に、
> 宝塚にてホキ1049.1052が被災、脱線してます。(鉄道ファン’96‐7)

ほとんど宝塚の惣川に留置されているようで、尼崎には運転時に一時立ち寄るだけだそうです。 尼崎もかつての貨物全盛時代の面影はほとんど消えてしまったように見えますね。 まだ細いレールの側線が(周辺にも)いくつか残っているようですが、たまに見るだけでは 使用されているかまでは到底分からず、気にはなっています。

> 先日、久しぶりに川西図書館に資料探しにいってきましたところ、旧駅の写真が「広
> 報かわにし」に掲載されてるのをみつけました。

情報ありがとうございます。またチェックしてみます。(広報誌は以前ざっと 目を通したのですが。)川西市のホームページにある写真 (http://www.city.kawanishi.hyogo.jp/event/oldtale/ImgFade/kawaike1.jpg) とは別のものですよね?

ご指摘いただいた幾つかの項目については、また時機を見て反映させていただきたいと 存じます。
ではこの辺で失礼いたします。

こんばんは。紺地です。
お忙しい中、返信ありがとうございます。

前回の「広報かわにし」の件ですが、掲載日付を書き忘れたようですみませんでした。昭和55年3月15日付です。写真は川西市のホームページとは違います。 撮影位置は同じみたいですが、「広報かわにし」は1番線が主で改札口も写ってま す。(1番線に上り列車が入線中)ホームページはご存知のように2番線が主で上り 列車が2番線に入線中です。(上り優等列車の通過待ちでしょうか?)

 ホームの切り欠きですが、前回書きました写真(晩年の旧川西池田駅と周辺探索 の項で使用されている、「釜割谷踏切よりホームを望む」の写真より右寄り、上り線 と下り線の間より撮影)には1番ホームが宝塚寄りの端から大阪寄りの植え込みの あたりまで鮮明に写っており(誇線橋の影の部分はやや不鮮明だが通路の部分で はない)1番ホームに切り欠きは、ないと断定できると思います。1番ホームにない となると、対面する2番ホームにもないと思うのですが。(残念ながら2番ホームの 側面が写っている写真は上記「広報かわにし」でしか見たことがない。)
 また、前回ホーム側面に色が塗られていると書きましたが、ただ単に塗りつぶす のではなく、斜めのストライプ(左下がり)でした。

次に駅事務室の出入口ですが、返信をいただいてからもう一度よく見直したところ、 改札口左のベンチの真横に窓ガラスが写ってなく(戸が開いてたかも…)おっしゃる とおりここかもしれません。また、私が幼稚園の頃(昭和49年)川西池田駅で写生 会があり、後ろか、横のドアが開き駅員が出てきたような記憶があります。この時、 側線に留置のク5000を書いたはずで、駅舎を背に同車両を書いており、出入口 はこの位置なのかもしれません。

尼崎の貨物側線ですが、南側(駅正面バスターミナル側)は見る影もありません。 北側には今も側線が残ってますが、王子製紙への専用線が廃止になってからは、 使用されてないようです。8番線の隣の側線は貨物列車・団体列車・回送列車が 待避線として使用している。(おそらく現場機関では9番線として副本線扱いされて いると思う。)廃止前はタキ(形式不明)・ワム38000・ワム28000などが 留置されてました。また、神戸寄り北側には貨物ホームとヤードが今も残ってるが、 貨物ホームは民間の運送会社が使用しているようで、大型トラックがよくとまってま す。
ヤードには、たまにチキと保線車両が入るのと、アルナ工機で落成した電車が発送 まで留置される程度です。が、先日アルナ工機が車両製造から撤退したようで、 尼崎唯一の貨物取り扱い(甲種回送)がなくなるとおもいます。
 また阪急電車もアルナ工機製でしたが、これにともない車両新製は川崎重工で おこなわれるらしいです。
去る、11/17に撤退公表後、東武鉄道30000系6連が発送され,これが最後 だったのかもしれません。(発送日当日の朝、尼崎のヤードへ撮影にいってきまし た。)

(アルナ工機に関する記事が鉄道ファン ’02−1bS89 150nにあり。)

それでは今日はこの辺で。

  

跨線橋手前の渡り板付近の拡大(左:1番線側・右:2番線側)
元写真は、晩年の川西池田駅周辺探索のページ参照。(Photo:H.Morita©)

こんにちは。森田です。

> お忙しい中、返信ありがとうございます。 

こちらこそ、いつも詳しい解説をいただき、ありがとうございます。

広報かわにしの日付をご教示いただき助かります。今度チェックしに行ってきます。

ホームの切り欠き(階段)は記憶違いだったようですね。 踏切からの写真では影でわからないと思っていたのですがよく見ると渡り板の位置と 影とは少しずれていますね。また、レイルロードの「DF50 Vol.3」の写真中の 1番ホームも、電柱に一部隠されているものの、ゼブラ模様のある部分には切り欠きは なさそうです。2番線側も前記踏切からの写真を拡大してみるとホーム端部は どうやらつながっているように見えます。

こんばんは。紺地です。
ご丁重な返信ありがとうございます。
より完成度の高いホームページになるよう、少しでも私の情報が生かされるので あれば大変うれしいことです。

 話は少々それますが、鉄道を趣味とする人は多数いると思いますが、 その大部分が車両の研究、切符の収集、写真撮影、などを対象としています。 なかには駅舎に興味がある人もいるかと思いますが、特定の駅、それも大阪や 東京などの大きな駅ならまだしも、普通列車しか止まらない一地方の駅‐「川西 池田」‐に興味をもっている人が、私のほかにいるとはおもいもしてませんでした。
 旧駅舎が姿を消して早くも20年が過ぎ、人の記憶も薄れるなか、これからの 調査は困難になる(私が調査した、約10年前でも川西図書室〈当時、図書館は まだなかった。〉でも資料が乏しかった。)と思いますが、これからも旧川西池田駅 を後世に残す(大げさ?)ようなホームページにしていってください。少しでもお役 に立てれば幸いです。

 近いうちに追記されるとのことなので、今回は資料の紹介をします。

  • 「広報かわにし」昭和55年9月1日付
      複線電化開業を待たずに新駅舎に昭和55年9月3日仮移転、仮営業とありま す。(駅舎撤去後、線路を増設するため)よって、旧駅舎は約7ヶ月早く役目を終え たことになります。
     ホームページ内【川西の鉄道略史】の項で〜川西池田駅はこの時、‐(中略)‐ 以後昭和56年の移転まで84年のあいだ〜とありますがこれによると、おのおの 1年短くなります。
  • 「栄根遺跡」 川西教育委員会 昭和57年
      ヤード付近一帯より遺跡が発掘され、その位置関係を示すため旧駅の写真も 数点収められてます。
    1. 航空写真。複線工事着工前で、「航空写真地図かわにし」より以前の写真と思われる。ヤード全体から駅本屋まで写ってます。
    2. 小戸水路付近より駅舎方向。
    3. 同じく、貨物ホーム方向。この写真により本線もヤードも水路をガーター橋で 渡してあるのがわかる。
    4. 同じく、大阪方向。辛うじて腕木式信号機が3基みえる。
  • 「鉄道ジャーナル」’99−2bR88(特集:日本海縦貫線の旅路)
      一見無関係なタイトルですが、特集の一部「日本海縦貫線の成立」(和光大学 経済学部 教授 原田勝正 執筆)の中に川西池田に関する部分が出てきます。
     以下、一部抜粋します。
    ―1939年(昭14)11月に、それまで上野−金沢間に運行されていた急行第6 01・602列車が大阪まで延長されたときにも上野から北陸本線を回って大阪に 行く急行ができたという驚きが走った。また、そのとき新設されたと思うのだが、 上野−大阪間の普通603・604列車の上りは福知山線川西池田発ということを 知ったときの驚きは、いまも忘れられない。川西池田−大阪間の列車番号が違っ ていて朝の通勤用に使われるのだろうが、ともかく池田というそれまで未知だった 駅から上野ゆきが出発するのである。池田発6時25分、上野着は翌日の5時21分 、22時間56分はしり続ける列車である。―
     …私も驚きました。
     (文中「川西池田」と「池田」の2通りの表現が出てきますが、当時は「池田」で あり、今現在福知山線「池田」としても、わかりにくいためのものだとおもいま す。)
  •  
  • 「鉄道ダイヤ情報」’01−10bQ10([特別企画]「急行」)
    「Rail Magazine」’02−1bQ20
     いずれも急行「だいせん」の変遷について掲載されてます。 ダイヤ情報は運用について、文章のみで事細かく間合いの普通列車まで解説してあ り、Rail Magazineは編成表を中心に簡単な解説が書かれてます。
  • 兵庫県道一覧のホームページ http://takigawa.road.ne.jp/pref/hyogo.html
     県道330号の路線名が『火打川西池田停車場線』となってます。 地図(スーパーマップル関西道路地図)で見ますと、火打と霞ヶ丘の町界が基点の ようですが、残念ながら川西池田まで到達してません。基点より約220b先の日高 町交差点で終わってます。火打と川西池田駅を結ぶ目的は何だったのでしょうか。 火打と言えば皮工場が思いつきますが、工場地帯は火打1丁目に密集しており、 県道12号が面しています。基点となる火打2丁目は住宅地ですので、どうも違う ようですし…。
     ちなみに旧駅前の寺畑1交差点からの坂道は、県道186号『花屋敷停車場線』 です。
  • 交通科学博物館所蔵の本ですが本の題名を記録してませんでした。内容は 保線関係のようで福知山線各駅の配線図と設備が記されてます。配線図は直線的 に書かれており曲線の具合はわかりませんが、ホームの配置、側線の本数は、 わかりやすいです。
    川西池田駅のページには次のようなことが書かれてます。
          ・給水直立管           ・曲301[大阪方] (半径と思います)
          ・矩形         ・曲603[宝塚方]   (  =@) 
          ・貯水器        ・11K210M (尼崎基点。現在は11K)
    

    このなかで給水直立管と貯水器が気になるのですが、貯水器とは給水塔のことで しょうか?また、いつ頃までどの場所にあったのでしょうか?
     給水直立管は北総レール倶楽部‐長岡の機関車‐ http://hokuso.com/nagaokael/html-nagaokael-04.html に写ってます。
    写真はDD53で試運転中とのことですが、一応ラッセル車も川西池田を通ったこと になりますね。(http://hokuso.com/nagaokael/html-nagaokael-05.html に反対側 ラッセルヘッドが写ってます。)

それでは今回はこの辺で。

こんばんは。森田です。

>  旧駅舎が姿を消して早くも20年が過ぎ、人の記憶も薄れるなか、これからの
> 調査は困難になる(私が調査した、約10年前でも川西図書室〈当時、図書館は
> まだなかった。〉でも資料が乏しかった。)と思いますが、

まったくおっしゃる通りで、その意味でも紺地様のご指摘されたような事柄を 歴史の証言として残していくことに意義を感じております。ご協力いただけて幸いです。

いちばん大きな問題は旧川西池田駅の駅員の方の消息がわからないことで、 数年前に駅で、昔からの方や資料が残っておられないかと尋ねてみたこともあったのですが、 転属が激しくてまったく分からないとの答えをもらったこともあります。(予想は していましたが。)JRに問い合わせるとか、名簿を探すとか、まだ試みていないことは いろいろありますので、時間がとれればやってみようかと思っています。 市役所の再開発課などでも結構聞きまわったものです。

さて、新たにいくつか文献を紹介していただきました。
駅の仮営業のことは記述からまったく欠落しており、かつ重要な情報ですね。 仮営業のことはまだ住んでいた頃のことで記憶しておりましたが、おかげさまで 結構宝塚電化完成との時期的ずれが大きいことが解りました。
そのほかの資料も近々探して参照することにいたします。
上野〜池田の列車の話は結構有名ですね。私は近畿400駅という本で読みました。
栄根遺跡の資料本は古本屋で見つけたことがあります。そのときは写真があまり鮮明で なかったような気がしたのですが、別の本だったのかもしれません。ぜひ もう一度、頂いたタイトルで中央図書館あたりを探してみます。

> ・兵庫県道一覧のホームページ http://takigawa.road.ne.jp/pref/hyogo.html
>   県道330号の路線名が『火打川西池田停車場線』となってます。
> 地図(スーパーマップル関西道路地図)で見ますと、火打と霞ヶ丘の町界が基点の
> ようですが、残念ながら川西池田まで到達してません。基点より約220b先の日高
> 町交差点で終わってます。火打と川西池田駅を結ぶ目的は何だったのでしょうか。
> 火打と言えば皮工場が思いつきますが、工場地帯は火打1丁目に密集しており、
> 県道12号が面しています。基点となる火打2丁目は住宅地ですので、どうも違う
> ようですし…。
>  ちなみに旧駅前の寺畑1交差点からの坂道は、県道186号『花屋敷停車場線』
> です。

このページも見たことがあるのですが、それ以上追求はしませんでした。 道路の歴史について詳しくないのですが、他の線との接続ということではないでしょうか。 区間が非常に短いということですが、都市計画道路として停車場までの区間が 吸収されたということもありそうに思えますが…。興味は尽きません。

>  ・交通科学博物館所蔵の本ですが本の題名を記録してませんでした。内容は
> 保線関係のようで福知山線各駅の配線図と設備が記されてます。配線図は直線的
> に書かれており曲線の具合はわかりませんが、ホームの配置、側線の本数は、
> わかりやすいです。
>   川西池田駅のページには次のようなことが書かれてます。
>       ・給水直立管           ・曲301[大阪方] (半径と思います)
>       ・矩形         ・曲603[宝塚方]   (  =@) 
>       ・貯水器        ・11K210M (尼崎基点。現在は11K)
> このなかで給水直立管と貯水器が気になるのですが、貯水器とは給水塔のことで
> しょうか?また、いつ頃までどの場所にあったのでしょうか?

給水器は、後のヤードの位置を占めていた機関支庫に設けられていた給水設備を 指していると思われます。 大正時代の写真をhttp://www.sowa.com/kawanishi/K_090.htmlの終わりの方に載せていますが、 空中写真で見ると、S.39には写っており、S.42にはなくなっています。 使っていたかどうか分かりませんが、S.40年代前半まで惣川の砕石列車を牽いていたD51がここで ホキの解結のために20分〜50分間滞在していたということなので、使われていた可能性もありそうです。

森田様:
こんばんは。紺地です。
 給水塔の件、解説ありがとうございます。
今現在も日本各地にSLに関する遺構が残ってるので川西池田も電化間際まで 残ってたのでは?と思ったのですが、早々と撤去されてたのですね。

今回も情報と資料の紹介をしたいと思います。

  • 能勢電川西能勢口−川西国鉄前の廃止日をS.57年と記されてますが、厳密に 言えばS.56(1981)年12月19日でS.57年目前での廃止です。  最終日には「さよなら試乗券」が配布され、たしか無料開放されたと思います。ま た、「さよなら乗車券」(80円券×3枚組)も発売されました。
  • 「日本通運川西池田営業所と川西池田貨物ヤード」の項〜ヤードの東隣には…〜 のなかで、川西郵便局の跡に住友銀行が出店とありますが、私の母に聞くところによ れば、〈S.41年頃小花に住んでおり郵便局へ行くのに国道を渡ることはなかっ た。〉と言っており、場所は現在の「和食のさと」のあたり(国道には面してない) だそうです。
     また、日通の東端とヤードの東端を結ぶ歩道橋の上り口は、記されているように 私も、そのように記憶してます。これは、川沿いの道が狭かったためでしょう。
  • 「能勢口周辺探索」の項、中央商店街について。
     現在の中央商店街の写真のコメントにほとんどの店が閉まっている、と記されてま すが、この頃は既に移転した後だとおもいます。写真左手にシャッターの前に白い 看板があります。これは移転告知の物で今もあります。また、阪急側は高架工事の為 数軒が立ち退きになり(仮線設置の為だったと思う)少し短くなったはずです。
     藤の森会館ですが、珠算教室は確実にあり、私も検定試験だけはここで受けました ので間違いありません。(ほかに英会話か、習字があったような気がする。)また、 場所がホームページで標されてる所でなく、藤の森稲荷に隣接してるはずです。
     ジャスコの今の建物を建設中は阪急ショッピングセンターの県道側で仮営業してい たらしいです。
  • 西友の前あたりに変電所があり、阪急、能勢電に送電していたようですが能勢電 能勢口−国鉄前間廃止後、レール一部撤去後も能勢口から変電所まで架線、レール が残されてたはずで送電用の為のものだと私は思うのですが、いつまで変電所があっ たかは憶えてません。
  • 尼崎港線に関するホームページ
    http://member.nifty.ne.jp/jnr-roko/jnrfoto/amako/aaa.htm
    http://www2.to/yahho
    この4点のなかで一番内容が充実してます。
    http://praza14.mbn.or.jp/^gocchiman/amagasakikou.html
    このなかに「川西池田‐尼崎港」のサボが写ってます。
    http://members.aol.com/ShaneHP/Train/Omoide/Amagasakiko.html
  • 川西池田に関するホームページ
    http://kyo1.site.ne.jp/fukuchi/770402/770402.html
    4枚の写真で構成されてます。うちDD54の写真は掲載者の間違いのようです。
  • 時刻表を見ていると福知山線の列車番号が700番台(区間列車を除く)になっ てますがいつ頃から定着したのでしょうか。

 そろそろ情報が尽きてきました。また何か思い出したり、発見がありましたらメールさせてもらいます。

  追記、改訂後のホームページを期待、楽しみにしてます。

紺地様:
こんばんは。森田です。
頂いた情報の一部を反映させていただきました。まだ第1次ともいうべきもので 資料のチェックなどはこの正月休みにでもと思っています。

>  ・能勢電川西能勢口−川西国鉄前の廃止日をS.57年と記されてますが、厳密に
> 言えばS.56(1981)年12月19日でS.57年目前での廃止です。
>  最終日には「さよなら試乗券」が配布され、たしか無料開放されたと思います。ま
> た、「さよなら乗車券」(80円券×3枚組)も発売されました。

この「さよなら乗車券」は先日の1000系廃止イベントの時に遅ればせながら 入手しました。これは模型資料としてもとてもよい写真でしたね。 上の箇所の書き方は「共に」という表現が曖昧で誤解を招きやすかった上に 廃止日を書かない理由もないわけですから、おっしゃる通りだと思います。 (これは最も初期に書いた部分で、その頃は知っている限りの情報を 書いておこうというような意図はぜんぜん持っていなかったのです。 今では逆に、微力ながらできるだけ網羅的になるように心がけています。)

>  ・「日本通運川西池田営業所と川西池田貨物ヤード」の項〜ヤードの東隣には…〜
> のなかで、川西郵便局の跡に住友銀行が出店とありますが、私の母に聞くところによ
> れば、〈S.41年頃小花に住んでおり郵便局へ行くのに国道を渡ることはなかっ
> た。〉と言っており、場所は現在の「和食のさと」のあたり(国道には面してない)
> だそうです。

この郵便局のことは昭和5年頃の『川西パノラマ地図』という、川西市史3巻291頁にある地図によっていて、ここでいう川西郵便局というのは現在の栄保育所の北にある川西郵便局の前身ということです。また私の記憶ですが、「さと」の近く、川西(後日訂正:川西伊丹線沿い)にも確かに小さい郵便局があったように思います(再開発が始まった頃)。現在どうなっているか知りませんが、住宅地図には書かれていないですね。
それにしても郵便局の移転については新たな謎として調べる際に心がけておきたいと思います。どうもありがとうございます。

>  ・「能勢口周辺探索」の項、中央商店街について。
>  現在の中央商店街の写真のコメントにほとんどの店が閉まっている、と記されてま
> すが、この頃は既に移転した後だとおもいます。写真左手にシャッターの前に白い
> 看板があります。これは移転告知の物で今もあります。また、阪急側は高架工事の為
> 数軒が立ち退きになり(仮線設置の為だったと思う)少し短くなったはずです。

なるほど、阪急側というと角の中央堂(金物)が変わっていなかったので短くなったとは 思いませんでした。線路が倍増しているのに北側の配置が同じということは、そういう ことになりますね。

>  藤の森会館ですが、珠算教室は確実にあり、私も検定試験だけはここで受けました
> ので間違いありません。(ほかに英会話か、習字があったような気がする。)また、
> 場所がホームページで標されてる所でなく、藤の森稲荷に隣接してるはずです。
>  ジャスコの今の建物を建設中は阪急ショッピングセンターの県道側で仮営業してい
> たらしいです。

藤の森会館の位置は地図の読み違いでした(文字の位置で表示していると思ったら 横に小さな点がありました。)早速訂正させていただきます。

関連HPのご紹介ありがとうございます。

>  ・川西池田に関するホームページ
> http://kyo1.site.ne.jp/fukuchi/770402/770402.html
> 4枚の写真で構成されてます。うちDD54の写真は掲載者の間違いのようです。

こちらは開設当初より相互リンクさせてもらっております。 おっしゃる通り、左に高い樹木があること、ホームが直線過ぎること、 2本の線路の間隔などから川西池田ではないようですね。(ただ、それ以外は 非常に似ていますね。どこの駅か気になるところです。)

>  ・時刻表を見ていると福知山線の列車番号が700番台(区間列車を除く)になっ
> てますがいつ頃から定着したのでしょうか。

この規則性もよく分からないのですが、S.22.6ではほとんど400番台ですが、それ以前に 700番台が付けられていた時期もあります。S.25.10のものではほとんどの長距離列車が 700番台になっています。正確に言うならもう少し多くの時刻表を集めて列車ごとの 遷移を見ていく必要がありそうです。

たいへん貴重なご指摘ありがとうございました。また思い出されたことなどありましたら お知らせください。引き続きよろしくお願い申し上げます。

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