■ 山内覚成〜池田(川西池田)駅長だった人物の自伝より     [目次ウ ィンドウ]   [目次]

国会図書館の公開する近代デジタルライブラリー(http://kindai.ndl.go.jp)に、山内覚成やまのうちかくじょうという、阪鶴鉄道池田駅駅長であった人物の自伝が採録されている。川西池田の登場する書物というだけでもなかなか珍しいのだが、その駅長が自ら体験を綴った書物、しかも阪鶴鉄道から官鉄になる過渡期のもの、さらにその人物は後に箕面有馬電鉄の要職も務めていたとなると、相当の史料価値がありそうである。
阪鶴鉄道当事者の残した記録としては、「阪鶴鉄道解散記念写真帖」があるが、主に人物写真から成るアルバムのようなものであり、文字情報はキャプション以外は含まれていない。他には、断片的な記述がたとえば小林一三の著書や「大阪駅物語」(1975, 弘済出版社)中のインタビューなどに見受けられるが、現場の記録である点と情報量の点で比較にならない。
この書は出版が大正14年ということで、言文一致体で書かれていて内容もくだけており硬くない。読みやすい部類である。ただ、自伝であるから、あくまで証言の一つとして扱う必要がある。

著者の山内覚成は、明治4年に京都府の園部にある浄教寺という寺に生まれる。青年期に東京に出て巡査を目指すが叶わず、すぐに大阪に行き、大阪駅の改札係を振り出しに、鉄道に活路を見出す。この書は、その波乱に富んだ人生の回顧録という形で大正14年に著されたものである。同書より把握できた経歴を記すと、

この通り、若くして主に運輸の現業の場で出世を遂げているが、その舞台は数年ごとに変わり、組織を渡り歩く経歴になっている。最も脂の乗った40歳前後が阪鶴・箕面有馬時代となる。なお、没年は不明。

追想録 中表紙

「辞世第一編 追想録」山内覚正(喝石)著(大正14年発行) 中表紙
国会図書館近代デジタルライブラリーより転載(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1017201/2)


「辞世第一編 追想録」抄 山内覚成著(校註・森田敏生)

明治38年、京都鉄道を退職し、一層の飛躍を夢見て韓国に渡るが、食物が原因の病を得て数か月にて帰国せざるを得なかった、そこからの数章をここに抄録する。全文はオンラインで閲覧できる。「第一編」とある通り、晩年の現物団時代などを中心とした続編の計画について言及がなされているものの、その存在は確認されていない。
本サイトに掲載するにあたって、旧字・旧かな使い・送り仮名は現代式に改めた。当て字などで平仮名表記に改めたものもある。また、多くの読点を現代式に句点に改めた。ルビはオリジナルにはない。強調の傍点「、」は〈〉で代用した。
なお、途中の「豪傑」の章には鉄道事故に関する生々しい描写があるので、閲覧にあたっては注意されたい。

阪鶴入社

古手屋のポスターは山陽・関西、阪鶴の三鉄道会社へ出した。阪鶴の恒河吉毅氏より志願の趣相談する、何か望みがあるのかというて来た。別段希望もないが、京鉄ではとにかく二条駅長まで漕ぎ付けたのであるから、小駅でも構わぬ、どうか駅長に使って頂きたい、俸給なぞは御任せすると折返し申し送った。スグコイとの電報により出頭すると、月給は三十円を支給する、池田駅長を命ずるとのことであった。
これより先僕が二条駅在勤中に阪鶴の運輸課長芳賀彌吉氏が見えられて、同氏の知友志水課長に面会を求められたが、生憎病気引籠り中であったので、来意を聞くと、今回福知山・新舞鶴間の開業につき駅員を融通してもらいに来たとのこと。僕は考えた。「京鉄も当分園部より先線の敷設される見込が付かず従って従事員の向上の余地がない、僕が他に転じたいというのも原因はそこにあるのだから、これは病中の志水氏を訪ねて相談をしよう」と。そしてその結果車掌以下十余人を転社させることに取りきめた。その時芳賀氏が、君も来ないかと僕にいうて下さったが、僕は既に伴支配人に転社の事を依頼してあるからというて、又何時御世話になるか知れませんがと、ひとまず断りをいうたことである。以後約半ヶ年を経過していたが、まだ駅長の入用があって、さてこそ僕が都合よく入選したのであったであろう。
当時阪鶴の社長は田艇吉氏、取締役兼支配人速水太郎氏、汽車課長兼工場長溝口一郎氏、保線課長北岡一直氏(後に上田寧氏)会計課長志津野直文氏、調査課長西川保次郎氏、用度課長和泉角一氏、池田機関庫主任若林崇氏、運輸課長芳賀彌吉氏、次席が恒河氏であった。
恒河氏は京姫鉄道創設の挙のあった時、しばらく京鉄へ来ていられたそうで、僕を知って居て下さった。芳賀氏は時々京鉄にも見えられた、速水氏は僕が園部駅長の頃、単身福知山から山陰街道を踏査せられた時御目にかかったことがある、僕の入社については恒河氏が万事斡旋して下さったのである。

「古手屋」とは、前の章から読むとわかるが、二条駅の駅長をやめて再び駅長の職探しをする自身を駅長の古物商になぞらえ、やや自虐的に表現したものである。「ポスター」はわかりにくいが、これもいわゆる転職のための身上書を、古物を売り出す宣伝の張り紙になぞらえているのであろう。

「京鉄」は、今の山陰線の前身だが、当時は京都と園部を結ぶのみの小鉄道であった。阪鶴鉄道と同じく、鉄道国有化の対象となった。「京姫鉄道」は、園部、篠山を経由して京都と姫路を結ぶ計画線。未成線である。

「池田駅」はいうまでもなく、のちの川西池田駅のことである。ここからいよいよ池田駅の話題に入っていく。

池田駅長

池田駅は阪鶴本社の所在地で京鉄二条駅に比し、構内、線路等の設備は比較的狭隘であるが、新舞鶴まで九十六マイル、駅の数が約三十、海を隔てると東は小浜および敦賀、西は伯耆の境港を経由して山陰西部一帯の交通を司り、それに北、ウラジオストクへも貨物の輸送を始めたので、なかなかもって二十三哩、七駅の京鉄の比ではない。そこへ池田がすべての策源地と来ているのだから、二条駅に数倍、十数倍の多忙さである。その代り常任助役・予備助役各一人、駅長と常任助役が隔日勤務で駅員の数は、車掌を入れると、八、九十人と註せられた。この主要駅に長たることは、僕の経験から割出して心中忸怩じくじたるものもあった。のみならず全線古参の各駅長を凌駕して新参の僕がこの椅子を占めることは或は全線駅員の反感を買うのおそれなきにしも非ずとも考えたが、今は早や躊躇すべきでない、その時はまたその時のことと、まず恒河氏に向って、飛入りの駅長は従来いかなる風に勤務させられるかを尋ねると、本来なら一ヶ月程本社運輸課にいて、社風も呑み込み、各駅の振合いも熟知して後本務に就かれるとよいのであるが、実は駅長病気のため、至急を要するからなるべく早く就任してほしいとのこと。然らば本社はあとにして、まず駅を見習わして頂きますというて、山田六造という常任助役の当番に一日尻から附き歩いて、徹夜勤務に服し翌日は休んで、その次の日から本日より単独勤務しますと届けた。こは少し無謀のようであるが、これにはこういう動機がある。初めて会社へ出頭の日、駅前の油茂(ユウモ)という旅館に投じた。そこは本社の賄方まかないかた兼独身社員合宿所のような料理屋旅館で、主人を荒木彌三郎というた。後に考えればすこぶる瓢軽ひょうきんな、罪のない、締りのない、好々爺であったが、晩餐後帳場で面会をして四方山よもやまの談をした時、彼いわく「あなたはどこの駅長をしてござったか知りまへんが、この駅は、そら、えらあっせぃ。だあれも、よう持ち切りまへんねぃ。前々駅長の誰も、前駅長も、そして今の駅長さんも余りにえらいのでとうとう病気になりやはりました。考えもんだっせぃ」とこの一語を聞いた僕は直に持病のやせ我慢を起した。何糞ッ、出来ん事があるもんか。よしんば病気になった所で、朝鮮で病ってるより余程ましだ。よし、見とれ、と思うた。それに今一つ、山田助役について見学してると、請負師の子分風の男が、僕を見て聞こえよがしに「なんだ長い髭をひねくって。えらそうにしたってこの駅をようやるもんか」この二つが例の負け惜しみの種となって一昼夜の見習勤務で直ちに単独勤務に移ったのである。僕駅長として徹夜勤務は初めてである。気を張って一昼夜マンジリともせなかった。そしてこの習慣は終始徹夜勤務に当たって、他駅員のマドロムことは見ていても自分は決して一睡をも取らなんだ。事故の少なかった所以である……とは少々手前味噌か……呵々かか
辞令を貰ったのが五月五日、勤務に就いたのが八日で七八回無事勤務。すると恒河氏は、井上君も転任(篠山駅長に)社宅もあいたから、速かに引越せというてくられた。そこで二十一日に帰国し、牛車一輌を雇い篠山駅まで荷物を送り、妻及び当時六才の英麿と赤井君の妹、のぶを女中代りに借りて都合四人、二十四日に池田着、駅前の馬車屋の前の小社宅に鎮座した。これが阪鶴鉄道で世渡りの序幕である。

明治38年当時の池田駅の規模が説明されており、当時の拠点駅にふさわしい偉容が見えてくるようである。人数には近隣の本社勤務社員はもちろん、工場・機関庫の人数も入っていないと見るべきであろう。いかに大所帯だったかがわかる。そして、それを支える近隣の商業施設は…?

ちなみに文中の「ユウモ」という店は昭和30年頃まで業態を(最終的にはパン屋に)変えて存在していた。場所は駅前の坂に向かって左側で、のちに食堂に変わった所である。その際、ユウモの経営者は能勢電の国鉄前の方に移られた(と聞いている)。筆者の先祖が所有地のひとつを貸していたのであるが、このような割烹旅館のような賑わいを見せたのは、本文に書かれた阪鶴鉄道の時代のみで、以後、この寺畑に旅館があったなどと想像する方が困難なくらい、急速に賑わいは衰退していく。

気苦労

人を使えぱ苦を使うと昔からいうが、十数人は京鉄から先着をしているので、期せずして前の親方と再会したことだから、その大部分は嬉しく気丈夫に感じてくれたであろう、僕もまた同様に感じた。しかし僕にして見ると、一面には又非常にヤリにくい所があった。というのは由来部下を統御することは至極公平であらねばならぬ、少しでも偏頗へんぱ、不公平があっては、それが不平の種となり、自然職務の上に現れて成績が挙がらぬ……事故が起り易い……何しろ貴重なる人命財産を預り日々、否、時々刻々に動く機械を扱こうて行く商売だから、この点に細心の注意を払うことを要する。仮にも京鉄党とか阪鶴党とか、ないしは甲派乙派というようなものを作ることになると、それを善用しお互いに発奮し合い、相競うて能率を上げるとよろしいが、えてして甲乙睨み合いをして、アラの捜し合いをして、相陥れんとするものである。こうなると第一会社の不利益は無論、又お互いのためにもならぬ。もっとも僕のこの場合全線の従業員数からいえば十人や二十人は知れたもので、何事をも企てられるものではないが、最主要駅の一角に、仮にもそんな一塊が出来たとすれば一般在来の社員の感情を害する訳であるから、約一ヶ年間というものは、むしろ気の毒な、可愛想なほど京鉄から来た人に働いてもらい、そして反対に昇給やボーナスは遠慮して申請をした。いくら公平無私にしているつもりでも、先方から見ると依姑えこの沙汰があるように色眼鏡をかけるからである。多く働いて少く酬いられる諸君も気の毒であったが、余儀なくそうしている僕も大抵の気苦労ではなかった。それでなるべく京鉄にいた人は採用せないようにしようと思ったが、阪鶴いよいよ殷盛いんせいを来たすに従い、人の需要が益増加するので、止むを得ない場合は本人にこの趣を篤と申し含めて採用したことであった。

豪傑

池田駅長就任の年の夏の事、隣駅中山に飯田千代槌という助役があった。何かの都合で解雇になって間もなく、池田附近の朋友の宅へ暇乞いに来て御馳走になり、午後十一時頃に池田駅へ来たがもう中山行の汽車はない。飯田先生鼻唄もんで徒歩線路を帰って行った。池田中山間は約二哩、その中程でいい塩梅あんばいに線路上に寝込んでしまった。熟睡をしたものと見えて、中山方面より池田へ来る貨物列車のために右の手を根元から奇麗に切断せられた。列車の乗務員は何等の感じもなかったと見えて、呼べど叫けぺど知らぬ顔で行き過ぎて仕舞った。飯田君仕方がないので、鮮血淋漓りんりたる、轢きちぎれた片腕を左の手に自分で携えて夜明け頃中山に帰り、あらためて一番列車で池田の病院に来て治療してもらった。何と阪鶴にはどえらい豪傑が居るなと思った。出血が多かった事だから助かるまいと、皆評してたのに、都合よく全癒して退院したがその後のゆくえは知らぬ。

興奮剤

午後四時五分に池田発大阪行の列車があった。本社員で伊丹、大阪方面から通勤の人は、この列車を利用した。しかし四時に勤務を終わって、四時五分に汽車に乗ることは、たとえ本社と駅が二丁程の距離であるにせよ、中々に忙しい、それで絶えず危険な飛び乗りをするものがあった。或日、本社調査課のYという若い男が慌てて来た。時は発車の合図の後、列車は既に運転していた。今し僕が「危い、よせぃ」というのと、その男が列車に引摺られてプラットと列車の間に落ちるのと同時であった。「シマッタ」と思って馳せ付けると、幸にもその男が小男であったため、少しばかりの擦過傷で、列車の通過したあとに、茫然と立っていた……顔の色ったら全くなかった……そこで僕は「馬鹿者ッ」というなり、平手でウンと横面を撲った、今までボンヤリとしていた、Y先生は思い出したように、もと来た本社へきびすをかえした、僕はまず事故のなかったことを悦んで駅長室に帰りこれを機会に本社員の飛び乗りを根絶したいと色々思案をしていた。その日はすむ。翌日、調査課長の西川君から、僕に一寸こいという電話。さては昨日のブンナグリの一件かと早速出頭すると、西川課長は.昨日課員Yが飛び乗りをして線路に落ちたそうな、幸に大した怪我もなくて結構だが、聞けば君はその際本人を殴打しられたそうな、それは如何なる理由か、との質問である。糞でも喰らえ、と思って「イヤどうも危い事でした。全く大怪我がなくて御同慶。僕のなぐった理由は、Y先生全くポカンとして線路に佇立して、若干気が遠くなったようでしたから、早速の興奮剤、葡萄酒一杯の代りに、〈オナス〉を一つ呈上したような訳で、Y君は直に気を取り直して本社の方にかえりました。今後とてもかかる場合には、会釈なく一本参ります。しかし四時に仕事を仕舞って四時五分に乗ることは、とてもいかぬ。乗るのを五時にするか、乃至は三時五十分位に退社するように改められる方が安全ですね。もし不幸、昨日Y君が、片手、片足、若くは生命を落としていたなら、〈オナス〉所の騒ぎではありますまい」と平然と答えた。多く居合せた課員はクスクスと笑ってた。西川課長は、イヤそういうことなら結構でした、というので.僕は駅に帰った。このところ撲って御礼を受けた形である。その後飛び乗りをするものは頓となくなった。

「二丁」は約220m。
この章は、池田駅と阪鶴鉄道本社がごく近くにあった、つまり終業後走って5分で列車に飛び乗ることが可能な場所にあったことを示すのだが、正確な位置については残念ながらこれをもってしても特定できない。(「阪鶴鉄道本社はどこに」参照)しかし、東西にあまり離れた場所、例えばのちの鉄道官舎のあった方面や、二丁目の授産場周辺は候補から除外し、駅正面の花屋敷への坂の左右(しかも、当時の地図が示す状況からみてその下半分)に絞ってもよさそうである。

橋立遊覧

春より夏秋へかけて阪神地方の客を橋立の遊覧に勧誘した。それは舞鶴より第一第二と二隻の橋立丸をもって宮津までの海上連絡を取ったのである。五、七十人もの団体遊覧となると、多くは会社から案内人を一人付けた。僕はしばしばそのモサ引に使用されたものだ。徹夜勤務の翌朝社宅に帰り寝床に這入りトロトロとしたと思うと、本社から出頭せよとの命令、芳賀課長は、君大層蒼い顔をしてるね、ドーかしたかと聞かれる……実は昨朝より出勤、徹夜勤務を前にもいうた通りマンジリともせず相済まして今し寝入った所である……いいえ、ドーも致しません、御用はときくと、気の毒だが何々の団体に付いて宮津まで行ってくれたまえ、とのこと、旅費日当は出る、賄いは団体がしてくれる。欲と二人連れで、終日チヤホヤと御客に付き合ってイヤな顔も出来ず、それはそれは辛い事であったのを記憶する。樋口君の帽子屋仲間の天橋遊覧にも一度随行したと思う。

松茸列車

松茸列車とは阪鶴の専売特許というてもよい程のその頃の新案で、季節になると武田尾、三田、相野、藍本、の五駅附近の山方と協議して一面大阪に出張所を設け、大は各会社、工場等より小は個人商店に至るまで、茸狩を勧誘して、各駅均一の往復割引汽車賃で大阪藍本間にボギー車七、八輌連結の一列車を運転するのである。まず午前五時頃池田駅で編成の列車を持って大阪に行き、八時過ぎに大阪を出て、その日の茸の発生の模様により甲駅へは何人、乙駅へは何人ないし丙丁と下車さして十時頃藍本に着き、帰りは午後四時頃から各駅に散在の客を拾うて六時頃大阪に送り帰し、更に空車は池田に帰着するのである。僕は就任の年から国有の年まで三年間この委員長を駅長の職務以外に申し付けられて、丹波の人間が摂津の国で松茸のために憂身をやつした事であった。今少しくその講釈をして見よう。
さてその仕組みは各駅の山方は、山開きより終りまで均一の代価を以て、入山料を取ることなしに、客の採取する松茸を売るのである、(その頃たしか百目八銭ないし十銭)それに鶏肉、酒、飯、その他アシライ等は時価で需に応ずる。山の方はその日の客の多少により適当に区画して提供する。茸の豊年だと自分の山へ一人でも客をたくさん取ろうと思うて自然競争が始まる。その代り凶作となると少しは植付けたような形跡がないでもなかった。
一方会社の大阪出張所では、新聞その他に広告して、電話その他で申込を受ける。一組五十人、百人、二百人、合計何百人、何組というような工合に、芝居の桟敷表の如きものを作りて適当に分割配置する。無論数日前の申込も受け、その他出来得る限りの便宜を計りて各駅へは一人宛会社員を監督に附ける。その総体を統轄して不都合なきよう見廻るのが委員長たる僕の役目で、面白いといえぱ面白いが、その代り一つ間違ったら、むごたらしく、客から不足を受ける。何の事はない料理屋御茶屋の仲居頭という憫れむべき仕事である。客によってはポチもくれる。僕は一日に二駅の山を巡視することを例としていた。毎朝雨天ならざる限り、未明から午後九時までいわゆる星を頂いて出て、月を踏んで帰る、全くの晨入夜帰しんにゅうやき、つらかったつらかった。その代り松茸やシメジはフリーであった。しかのみならず、山を巡回すると色々な面倒に出会する。ここもまた〈失策喧嘩持つ掛り〉で、ある年山開きの当日、まず武田尾に下りたら川向いの料理屋と対岸の料理屋と山の事に就ての衝突に出くわして、その仲裁に徹夜をしたこともあり、ある時はまた客同志の喧嘩の中に刃物の下へ飛び込んで、不破名古屋の鞘当たらぬ留女、イヤ留男の芸当を演じたり、それはそれは五月蝿うるさしともうるさし。最も滑稽であったのは、山を巡回すると、ブツブツと呟いている御客に会うことが度々ある。何かと聞くと、松茸が少ないという、籠を見れば、成程、頓と取れていない。山方をよんでひそかにこれを糺すと、明日は大勢特別の指定があるので今日は、そう広く開放が出来ぬという。然らば少々でよいから、僕に免じて縄張りを拡張せよと囁くと、山方心得て客の知らぬ間に幾分広く縄を張りかえあの松の下、ここを下りた谷間なぞと僕に暗示する。僕はイッカド専門家のような顔をして、「それは御気の毒、一つ僕が捜して見ましょう」なんかと胡魔化して現場にゆき、「それ、そこに、ここに」と指示し「あなた方が御下手なんですね」なぞいうと手を拍って満足をする。その実縄張りをかえたのは御客様御気が付かんのである。
どうしてまた最初から終りまで均一の値段で売って引合になるかというと、山方の多くは農業であって、ここ松茸の期間は、稲の苅り取りは早く、山で売るか……中には受け山もあるが……自分で採取して大阪方面に送り出すか、何れにしても売るのである。(なるべく楽でなるべく余計に儲かる方法で)そこで常から養鶏もして置けば、葱も沢山作りておく。柿や栗も序でに売る。家内中総係りをする。松茸の目方なぞ、籠の風袋もそのまま、木の葉もあれば、土も附いてる。これは自家で採取して掃除して、石油函に荷造りをして天満あたりの市場へ送り出す運賃から問屋口銭、品物の乾燥による、メカンその他の雑費を差引くと優に勘定が出会うのである。
園部地方でも松茸は沢山あるからこれを少し上手にやれば、暇令たとい鉄道の保護はなくても御客に満足さして、自分も儲け、地方の繁築を図ることも出来るが、土地の習慣として、毎年山を請ける人が必ずしも同人でない所から、たまたま客があっても、無鉄砲な値段を吹きかけて、その年だけの自分の利益を見ることに汲々として、永遠の地方発展策を講じることをせないから、あかん。まだまだ説明はあるが余り長講になるから、ここらでやめる。

天橋立遊覧と松茸列車は阪鶴鉄道の目玉企画であった。ここでは珍しく予約の状況を想像させるような具体的な記述や列車の編成・仕業まで詳細に書かれていていっそう貴重である。天橋立遊覧団体列車も、まるで昭和の臨時列車「はしだてビーチ」のルーツのように思われるが、船まで抱えていた点で阪鶴鉄道が上を行っている。ちなみに「失策喧嘩持つ掛り」とは、前の方の章で出てくる自虐的な表現(前職の出札兼貨物係をもじったもの)、「留女」の出る「鞘当」とは歌舞伎の演目のことである。(前の方の「芝居の桟敷表」と掛けているのだろう。)「稲の刈り取りは〜出会うのである」のくだりは、松茸と一緒に売る品物を計画的に栽培している様子、および、現地売りで経費をかけないことにより入山料など取らなくても均一価格で儲けが出ていることを説明したものである。「風袋」はここでは籠の重量分を指す。「メカン」は不明。

狂歌

僕は若い時分には川柳、狂詩歌句、都々逸、冠句なぞに凝ったもので、従って幾分天狗であった。今も尚趣味はある。池田駅長在勤中、元京鉄時代の部下であった、山下留次郎君が、その後鉄道をやめて、大同生命の募集員となって、出て来たことがある。君は中々の才子ですこぶる敏捷な男であった。僕は生命保険は嫌だ。外に理由はないが掛金が出来ぬからだ。それより鼻の下保険会社が何処かにないかをさがして居る。けれども、僕を頼って来たとすれば、捨てても置けず、仕方なしに彼此と知人に紹介すると妙に成功して加入さして来る。暫くの間に一万円余りも出来たであろう。その時大同の本社から宮本道成という医者を連れて来て面会をした。快活な面白い人であった。或日三人晩餐を共にし一杯機嫌で、僕が大いに狂歌天狗を吹聴すると、四五日滞在の後、和歌山に出張して僕の法螺ほらに当てられたとて、一首の狂歌を送った。その歌は忘れたが、僕はすぐ返歌をやった。いわく
  かくてこそ〈かい〉もありけれ初〈法螺〉の
    君を紀州に吹いて飛ばして

  〈やぶ〉のこと束の〈ま だけ〉も忘られず
    又の首尾して出会い〈もうそう〉

一時これが評判になったら、駅前に三国楼という茶店があって、女将を常田セイというたが、一日カステーラか何か菓子を持って来て、僕に一首を詠めという。即ち
  御馳走はけふに限らず〈つねだせい〉
    〈三国〉のことぢや〈よくにや〉申さぬ

これをきいて、伊丹警察署長の三宅福太郎君が巡回の節、立寄りて僕にも何か一首と求められた。そこで怒っちゃいけないと前提しておいて
  えらそうにしても〈みやけ〉によらぬもの
    〈福太郎〉でも金はあるまい

とやったら三宅君頭を掻いて「これは怪しからぬ」というて去った。大田南畝のふんどし位はもてる自信はある。ハハハ

度量衡

一日、本社から呼びに来た。行って見ると池田駅に設置の地下衡器について兵庫県庁より社員に出頭を命じているから御苦労だが出張せよとのこと。県庁に行くと權度ごんど課長らしいすこぶる威厳ある御役人が、君の方の地下衡器の目盛は何かとの尋問、あれは噸、分、厘ですと答えると、日本の度量衡法に於ては、噸という名称を認めぬ、宜しく貫目又は斤に改造すべきである、従来しばしば検査員の報告に基づき君の方へ注意をしてあるはず、今尚改めぬは不都合であると御叱りを受けた。僕一寸面喰らったが……そうですか、すると日本では貫、斤以外のカンカンは使用できぬと仰せらるるのですかときいたら、然り日本の度は里丁間尺、量は石斗升合、衡は今いう通りでないといけぬという。僕反問した。然らば承りたい。あなた方東京にでも御出張の時、旅費の御請求は矢張りその里丁間尺によられますか、又は哩によられますか。医者や薬屋はオンス、グラムを使いませぬか。陸軍ではメートル法によっているように聞きますが、と一本参ったら、そんなことを今、いうのではない、唯噸を貫又は斤目に訂正せよというのである、といささか御機嫌を損じた。エエイ、序にヤレと思うて、強いて御命令を拒む訳ではないですが、ドーも理屈が合いません。鉄道局の方は貨物輸送に対し、一噸一哩二銭とか三銭とかで、それぞれ許可を与えているのみならず、局自身もそれで営業してござる。同じ日本の政府でありながら内務省の管轄なる地方庁では噸や哩を認めぬと仰せらるることは僕不敏にしてトンと合点が参りません、と二本目を参ると、君はなかなか理屈をいう男じゃ、実は近来そういう矛盾が各方面にあって、先般も学校問題で文部省と内部省[ママ]の指令の衝突が出来て、県庁で弱ったことがある。よくそれに似ている。イヤこちらも充分研究しておくが、差支えなくぱ改造をしてくれると都合がよろしいと、有耶無耶であとは世間噺をして帰社した。何をしに神戸まで行ったのか分らん。

この章は自慢話めくが、駅長が理屈で役人と渡り合って勝ったという挿話である。「地下衡器」とは、何も地下室があるわけではなく、荷車をそのまま載せて計量できるように床下に埋め込んだ重量計、今でいうトラックスケールの小さいものと考えてよいと思う。
權度課とは、計量などを監督した部門のこと。

阪鶴鉄道解散

前数章に記する処の如く阪鶴日を追うて繁栄に赴くので、徹夜勤務の翌日色々の仕事を仰せ付けられるし、僕も体力が続かぬので委細を恒河氏に具申して、助役一人を増員し僕は日勤の駅長という事にして貰った。これで少しは楽になったが、それからそれへと幾らでも用事が出来るので、結局は忙しい通しであった。その著しきものは、箕面紅葉の季節、絵はがきの卸し売、妙見参りの季節、松茸列車、天橋遊覧、等である。かくして明治四十年の春を迎えると、八月一日を以ていよいよ政府に買収され、会社は解散することとなった。追々と日は迫る。国有準備局からは絶えず官吏が出張する。五月、六月、七月、人心何となく、そわそわとして落付かない。先以て衆の気になるのは,解散慰労金、国有後の待遇が第一の問題で随分とやかましいことであった。が、僕は全く落着き払っていた。何故かというと、京都鉄道に居て買収に逢うのならば、丁度十ヶ年以上の勤続で一等の古参駅長として鳥渡ちょっと楽しみもあるが、不幸入社後の日が浅いから解散慰労金なぞ、知れたものだと観念していた。も一つ待遇の如きは今より悪くなる筈はないと信じていた。しかし阪鶴へ来て二ヶ年余折角無事に経過したものを、解散の間際になってから、人心動揺のために大きな事故でも醸生して、いわゆる川口で船を割っては大変だと、それのみ心配していた。幸にも順序よく運んで七月三十一日に到達し、その日を以て阪鶴鉄道株式会社は消滅という訳、それと同時に永年の鉄道生活から足を洗うたものも、池田駅だけにでも五、六人はあった。そして八月某日僕は解散慰労金及び各種積立金等合計一千円に近い金を支給せられた。僕は驚いた。高々四、五百円の胸算用でいたものが、千両箱一個を得たのだから……さきに入社の時僅々三十五円より持合せなかった貧民から一躍千円もの成金になったのだから……驚かざるを得んではあるまいか。喜ぱざるを得んではあるまいか。これは芳賀課長が特に二ヶ年間の功労多大を賞する意味を含んでるとの諭達と共に給せられたから、同氏の注意により特に速水取締役に御礼を述べに行ったことを覚えてる。

いわゆる明治の富国強兵策の一環で、鉄道国有化が議決され、阪鶴鉄道も解散に追いやられるのであるが、その末期まで業績が上向いていたことを証言している。ここに限らず給料勘定の記述が多く出てくるが、あとの章(本抄録では省略した部分)にて、実家の水害や子の病気に伴う出費であらかたなくなってしまったという話の伏線になっている。ともかく、俸給を記録に残すというのが著者の信条であったらしい。

国有鉄道

僕は月給五十円として政府に引継がれた。そして四十三円に値切られて帝国鉄道庁の雇を拝命した。月給を下げられたのは、一人僕のみではない。傭人を除く外、皆一般で甚しきは十円も下落したものもあった。さて雇でも官吏のはしくれ、雑魚もトトの内とやらで、服務規則とか、職務章程とか随分と煩らしい。尤も僕は前に一度鉄道局に奉職はしていたものの、今よりは、ヨリ下級の官員さんでもあり、また十余年も経過しているから振合は、すっかり変わりている。七月初旬に鉄道法規類抄其他十数冊の規則書を各駅に配付して、通読して置けであったが、そんな余暇なんぞあらぱこそだ。所でいよいよ国有になって見ると会社時代のように簡単には行かぬ。一々字引を見て規則にあてはめねばならぬ。それに会社の末期には駅員に不足が出来ると、先づ国有まで我慢しろと命ぜられて、無理ばかりしていた所へ、前にも書いた通り解散と同時に御免を蒙りたものも沢山あるから、乗務員でも駅員でも、規則通りにすると多大の不足を感じて来たが、一方貨客の方はそんなことに遠慮はない従前通り否寧ろ、ヨリ敏速に、ヨリ正確に、呑吐せねばならぬ。貨物列車の連結車数なぞ制限を超過することはならぬから自然停滞する。従って不定期列車を瀕発さす、乗務員は疲労する、ヤケになる、欠勤をする、動きが取れぬとは真に当時のことであった。書き遅れたが国有以来は帝国鉄道庁神戸営業事務所の管轄で、従事員に不足があると、そこの運輸課に電報して大阪や神戸から助勤を取るのであるが、本課もドサクサしているから急を要することはなかなか間に合わぬ。たとい助勤者は来ても振合いが丸切り違うから、役に立たず、働きも鈍し、其癖高ぶっていて命令を用いない。ここ暫く千番と一番の兼合いで、何とかしてこの過渡時代の難関を円滑に切り抜けたいと、毎日綱渡りのような、危い芸当を演じていた所、遂に車掌から問題を持ち出して国有後の劇務の状況を陳述し、斯る虐待を受けつつ勤務することは到底忍ぶ能わざる所であるから、速かに適当の方法を講ぜられたく,然らざれば我々一同は同盟欠勤をなすの不得止に出るやも知れぬと、ストライキの予告が来た。僕は答えた。然り全く同情する。実は僕もいささかも叶わんから君等と共に行動を取りたいが、然れども思え諸君、阪鶴の社員は国有になって規則が厳重で、又は仕事がえらくて屁古垂れたと、鉄道庁初め世間からいわれて見よ、阪鶴も不面目なら、我々も男の一分が立たぬじゃないか。ここ暫く陰忍持久してくれたまえ。僕にも思案がある。一身を賭して諸君の安心するよう計うて見せる。万事僕に一任してくれと、百方慰撫してその時は済んだが、間もなく僕の癇癪玉の大破裂をする事件が起りて、僕は至急官報の電信で神戸営業事務所に召喚せられ、いよいよ勅任所長、春日秀朗閣下の審問を受けるという一席は……一寸一息入れまして伺います。

著者が気合いを入れて書きたかった部分なのであろう、割愛するのは甚だ申し訳ないと思うが、引用が長くなりすぎるため流れだけを説明させていただく。この章末に出てくる事件とは、職員給料請求書の提出が遅れたために経理から給料支払を拒否されたという一件で、職を賭けて神戸の役人と交渉した結果、給料支払いその他要求を呑ませることに成功するのである。また、続く章は実家の園部に起きる洪水災害の記述であるが、これも同じく割愛し、次の官制改革の章に移る。

官制改革

そのうちに官制が改革せられた。帝国鉄道庁は、御寺のように鉄道院と改名して、僕はその西部管理局の池田駅の御住寺さんとなったのである。院主さんは後藤新平男爵で、岩崎彦松氏や池上駒衛氏、および中西菊松氏等が大小の役僧とでもいうものか、その又坊さんが、赤い頭巾はよいとして、金モール肩章附の法衣に、豚の尻尾を見たような佩剣はいけんをするという、珍装束。何がさて管長は後藤蛮爵だから前景気は頗るよろしかった。この改革につれて.局内のすべての機関も改められ、西部管内の各駅を十六組に分ち、各組に長を置き、僕は即ち第十五組の長として、尼崎古市間十三駅を監督することになり、組長は時々神戸に会合して事務上につき討論研究をするというどえらいことになって来た……絶えず受持区内を巡回して事故を未然に防ぐことを努めるやら、遥々と名古屋までも後藤総裁の訓示演説を拝聴に出掛けるやら、各駅に出張してその受け売り訓示をするやら.佩剣して団体列車に附随し伊勢参宮をするやら、爾汝じじょの交をしている同僚駅長を賄賂事件で取調べるやら……それはそれは珍現象を呈したものだ。しかし中々活気はあった。救済組合の出来たのもこの頃、官吏の二割五分増俸もこの時であつた……ホンニ僕の俸給を書くことを忘れていた……国有の時値切られた四十三円の雇の僕は、翌年四月一日判任官二等四級俸の四十五円と相成った。同時四十二円で雇になった人は五級俸の四十円に再び値切られた……二捨三入をやった訳である……で、二割五分増俸の時には、僕は一級進んで三級俸になっていたから、運よく三割の増俸になって、六十五円と註せられた。この時にも又値切られたものが沢山あった。一般に値切られる噂を僕は聞いていたから、公報の出た翌日神戸に公用で出張したついでに池上営業課長に面会して、厚く御礼をいうておいた。それでという訳では無論あるまいが、僕は減給を免れた。この時より漸くにして月給鳥らしい羽根がはえたように思うた。但しまだ年齢は幸に六十五歳にはなっておらぬ。かくのごとくにして明治四十三年の九月二十日まで無事に勤務を続けた。

管轄・組織が頻繁に変化を受け、さらに鉄道国有化を経て巨大組織となった国有鉄道組織であるが、明治41年、後藤新平を総裁とする鉄道院に再編された。「蛮爵」とは男爵をもじって後藤につけられた、当時の愛称。
「佩剣」とは制服が変わり、駅長がサーベル(短剣)を身につけるようになったことを指す。当時の駅長の制服はまるで高級将校かと見間違うようなものであった。
そのような中、組織は変わっても池田駅長を続け、阪鶴線古市までの13駅の監督を兼任していたという記述が注目される。

退官

この間に箕面有馬電鉄が大阪宝塚間開通をして池田駅は寂しくなった。由来池田駅の所在地は兵庫県川辺郡川西村寺畑という一寒村であって、音に名高い呉服の里、即ち大阪府摂津の池田町迄は十町程もへだたっているのである。それに山陰線の綾部園部間も連絡が付いて、さしも殷盛いんせいを極めた日本の南北横断の阪鶴線も芸裏げいうらとなり、とみに寂寥を感じたから、管理局人事係長中西氏に、どこか東海道線に出してほしいと依頼して、略その諒解を得ていたが、これより先、鉄道国有の後、阪鶴会社の重役は皆去られる、幹部の人々も夫々任地を異にして各方面に離散した頃、速水重役に、僕も民間の会社に従事致したいからと願っておいたら、二年余りを経過した四十三年の九月十六日の朝、休みの日にちょっと大阪まで来いとの電話があった。それで出頭すると、箕有電鉄に人を要する、来るなら来いとの仰せである。さきに御頼みしてあったのだから御世話になりたい旨を即答した。しかし二週間の後ということを述ぺ、その諒解を得て帰り、かれこれと心積りをして二三日の後病気引龍りをした。官舎に引籠ってると日々同僚が見舞に来てくれるので、園部に退却した。ここへも続々と人が来てくれる。頑丈な山の内が、どうしたかというのと一には国有当時の一件があるから、また何か不平があるのではないかと、皆が心配をしてくれた。友情の迸りでまことに難有く感じたことである。十月一日に池田に帰り病気退職の発表をして、辞表を携えて中西氏を訪い、真想を話して病気退官にしてもらった。もっともその頃神経衰弱に罹り不眠症を起して困っていたのも事実である。官吏の勤務は三ヶ月間病気しても、一日だけ出勤すれぱ、またあと三ヶ月は病気欠勤がきく。六ヶ月間俸給の只取りをして、その後を休職にしてもらうと、おおいに儲かるが、それは無茶だ。知人某はその頃、この方法で六ヶ月間他の会社へ出て月給の二重取りをしていたが、僕はそんな悪計は用いない。又休職の運動もせず、正に判然と事実を陳じて退官したのである。それでも十月分の俸給は官と会社と両方から受けた。厳格にいえぱこれも不都合であらねばならぬ。

箕面有馬電鉄はいうまでもなく現在の阪急電鉄(宝塚線)。阪鶴鉄道がなくなった後、その幹部のひとりであった小林一三が中心となって設立した鉄道である。この営業開始が池田駅とその周辺に即座に大打撃を与えたことがわかる重要な一文である。その主因はもちろん箕有電鉄が当時このあたり随一の商業地であった池田の中心部に停留所を構え、今まで仕方なく遠く離れた阪鶴線の池田駅を頼っていた旅客がほとんどそちらに流れてしまったという動線の変化にある。
しかしこの著者は機を見るに敏、阪鶴鉄道のつてを頼ってすかさず箕有電鉄に転職し、運輸課長になるのである。この後、箕有時代の挿話が続くが、割愛する。

箕電退社

池田より妙見に参詣する交通路としての能勢電鉄は数年前から計画せられていたが、なかなかに進捗せず、一時は疑獄さえ起って妙な噂をきいたこともあった。そこへ太田雪松という人(この人後に摂丹鉄道に従事していたが成功せなかった)が来て、ともあれ開通さして近々営業開始ということになり、その運輸課の組織を箕電に依頼したので、僕がその担当をして、折々能勢電の本社へ通うていた。ある日も同社へ行っていると、速水さんからすぐ大阪の電気信託会社まで来いとの電話。早速馳せ付けると、一冊の営業報告書を示されて、この会社に支配人の必要があって、箕電へ誰か人選してくれとの依頼である、急を要するからかれこれ物色の暇がない、そこで君一つ行くことにしたらどうだろうと思う、これは強いて進める訳でもないが、君の将来のためにもよかろうと思うし、この場合先方へ対しても君が適任のように考える、よく調ぺて明朝までに返事をせよといわれるのである……行先は宇治山田市の伊勢電気鉄道会社である……僕なぞに仕事が出来るでしょうかときくと、出来るようにして行けばよいから心配するなとのこと。宅へ帰って色々勘考もして見た……鉄道院を辞しこの社に入りて、初めKなる人のために惨々にくるしめられ倒し、撲られもすれば、伝染病になる程の辛い思いをもして漸く居馴染んだ所で又新しき会社に転じることはどうかなあ、しかし恩人たる速水さんの言葉に背くこともよくなし……とそこで樋口君に相談をすると、そりぁ面白い行け行け、たとい田舎でも百万円以上の資本金で山田としては大会社だ、それに支配人といや、課長より資格はよしとケシを掛てくれる。ところは皇太神の鎮座まします伊勢のことなり、牛後よりも鶏口かいなあと思ふて、翌朝御請けをして、当時の伊勢電取締役野村徳七氏に初対面の上詳細の事情をきかしてもらって工学士井上福胤君と同道で三日と経たぬ内に伊勢路に向ったのである。

伊勢電鉄は今は近鉄の一部となっているが、当時三重県にあった私設鉄道。能勢電と伊勢電が紛らわしい(両社は特に関係はない)が、能勢電について触れられた部分、箕有電鉄がよく知られているように電力関係の融通を行っていたのみならず、実務面まで支援を行っていたことが書かれているため紹介した。(資本参加や車両の融通はもう少し後のことになる。)
本文はこの後も伊勢電時代、大阪株式現物団時代と続くが、本論と関係のある部分はここまでとなるので、以上で抄録の完とする。

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