■ 「摂北温泉誌」に見る大正時代の川西     [目次ウ ィンドウ]   [目次]

本章で取り上げる「摂北温泉誌 三田、伊丹、池田、名勝」という題名の文献は、大正4年に伊勢の文筆家辻本清蔵の著した旅行案内の書である。別名「有馬温泉誌」といい、表紙にはそのように表題が記されているが、内表紙(下写真)、目次、緒言いずれも「摂北温泉誌」(目次では「誌」でなく「史」だが)と題されている。別名が表わすとおり有馬温泉の案内に重点が置かれており、分量的にも有馬温泉の解説が半分以上を占める(約200頁中110頁)のだが、他方で副題にもある通り大阪・神戸から三田を経て有馬温泉へと至る経路と道中の名所が詳しく解説されており、それが本書の特徴になっている。特に大阪・宝塚・三田間は、福知山線と箕面有馬電鉄線(阪急線)それぞれ各駅停車での周辺案内となっており、当時の沿線風景がかなり詳しく描写されている。やむをえないことであるが駅によって関連記述に多寡が見られ、数行の解説で済ませられる駅も多い。しかしながら、中でも伊丹町(福知山線)と池田町(箕有線)の記述は突出しており、資料的価値も高いのではないかと思われる。
有馬に関する解説書はこれが最初ではないが、このような書がこの時期に現れた背景には、汽車・電車の開通が大きく関与しているのであろう。現代の気軽な旅行案内書に通じる実用性を持っていることからもそのように伺われる。

摂北温泉誌

「摂北温泉誌」辻本清蔵著(大正4年発行) 中表紙

目次は以下のとおりである。

ここでは主に川西付近の描写を再録してみることにしたい。なお、旧字・旧かな使いは現代式に改めている。句読点や送り仮名はそのままにしてある。
まず、「阪鶴線大阪梅田駅より伊丹宝塚を経て有馬に至る」と題された章では、福知山線池田駅に関しては次の通り省略された記述があるのみである。

池田駅

伊丹駅より三哩[マイル]半にして池田駅に至る此附近名所は箕有電車線に於て詳かにす

とあり、すぐ後の「箕面有馬電鉄線大阪梅田起点より池田宝塚を経て有馬に至る」と題された章、能勢口駅・花屋敷駅の項において、以下の通り詳しく語られている。多くは川西に長く住んでいれば一度は聞いたような事柄である中、平野鉱泉の項は特に詳細で興味深い(本書は温泉案内であるため、当然のことではある)。

妙見山

次は能勢口なり。茲にて能勢電鉄に連絡し妙見の参詣道とす、妙見堂は豊能郡東郷村大字野間中の妙見山にあり、麓より坂路十六丁にして堂に至る、一丁毎に標石あり、左右には石灯籠十六基あり、麓には旅館ありて賽者に便にす、谷川には石梁を架し、山光水色掬すべく、泉声怪石亦愛すべし、本堂に妙見菩薩を祀る、長二尺五寸にして作者は不明なり、旧藩主能勢家の鼻祖鎮守府将軍源満仲の鎮守にして、満仲の孫頼国長元年中本郡に遷るに当り、氏を能勢氏と号し、且つ初めて霊符を此地に勧請して城の守護神とす、降りて第二十三世摂津守頼次に至り、深く日蓮宗を信じ、慶長年中同宗の総本山甲州身延山の日乾上人を請し、領内の真言宗を悉く日蓮宗に改め、鎮守霊符も亦北辰妙見大菩薩となし、上人更に霊像を刻して頼重に授けて安置せしめ、且真如寺を創建して法務を執らしめ、爾来能勢家の私祭に属せり後、能勢家より本尊仏体及土地堂宇を寄付し衆庶の参拝の妙見山とせり、されば厄難病苦を患うる者は此処に篭り、或は堂下十一丁なる滝に潔斎して祈願するもの、遠く海山を越え絡繹として絶えず、摂津名所図絵に当山の繁昌賽人の群集平生尚法筵の如し、と蓋し適評なるべし。

多田神社

多田神社は多田村大字多田院にあり、祭神源満仲、源頼光、源頼信、源頼義、源義家にして、天禄年間円融帝の勅を奉じて、満仲の三男美丈丸出家し、源賢僧都と号し創建する所、後寛文年間徳川家綱有司に命じて殿舎を造りしものなり、境内岡巒により多田川に臨みて遠望広闊なり、皐月花数十種を栽え、花季人目を眩せしむ、此地多田古城の址なり。(中山寺記には美女丸とあり同一人なり)

石道鉱泉

石道鉱泉は多田村の内石道多田川の沿岸より湧出す、明治二十三年四月大阪の商人汲取の許可を請け、明治二十六年三月より飲料水製造に従事しつつあるも、未だ盛況に至らず。

多田鉱泉

多田鉱泉は中谷村大字西谷にあり、樹木繁茂して蒼翠滴るが如し、銀山川は其附近にあり。

鼓滝

鼓瀑は多田院より八丁余の南東にあり、左右の岩石突兀俯仰し、川幅三間許なり、昔は飛瀑十丈激水_々[どうどう]たりしも洪水の難を恐れ、多田院造営の時岩石を削り取り痛く風致を害せり。古歌に
  今も尚音に聞へて津の国の鼓の瀧の名こそ高けん
  音に聞く鼓が瀧を打ち見ればかけぢや神のぬれもこそすれ  西行法師
とあり、今は名実備わらず

屏風岩

屏風巌は多田村より三里奥の多田川の上流にあり、岩石屏風に似たり其数大小六七枚あり、高二十間幅十間余あり、恰も六曲屏風を廻すが如く頗る奇なり、老松龍の如く、初夏岩間に躑躅咲き、翠紅相掩映して奇観を極む、同所に裏屏風、烏帽子岩、鬼ヶ門等の勝あり。

平野鉱泉

平野鉱泉は多田村の内平野字湯の谷にあり、泉源は湯の町の北方なる沙羅林山麓の崖下にありて湧出すること滔々たり、満仲多田にありて遊猟を楽み一日鷹を城外に放つ、偶[たまたま]崖下に至り霊泉を発見し、之を汲むに甚だ味異なるに依り霊泉たるを知りしと云う、元禄年間始めて官に請いて湯の町の中央に浴舎を建て、樋を泉源に架して水を引き、熱を加えて温湯となし、旅舎亦据風呂に湧し盛んに客を呼べり、其名世に聞え来浴するもの頗る多し、旅舎は街道の両側に比[なら]び其最も隆盛時には二十四戸に及び、諸旅館は美を競い妍を争い軽佻児女集り来り、昼夜歌吹の巷なりしが、其後衰退して浴場は遂に廃絶に帰したるも、明治十七年十月始めて鉱泉を以って飲料を製するに至る、是れを平野水と名けて販売せり。
泉質は…(略)
鉱泉汲所は数ヶ所ありて、此れが許可を請けし者は神戸内田幸三郎、大阪井上源三郎、豊能郡植村重左衛門川辺郡原田慎三、同久保久三等にして期間満了或は譲与等をなし盛に飲料水を製造せり、商標名は左に
ジーヒラノ・ゼネラルウオーター・カンパニーの平野鉱泉と帝国鉱泉株式会社の平野水とす、ジーヒラノゼネラルウオーター、カンパニーは明治三十七年に資本金十二万五千円の株式組織とせり、一ヵ年の産額二万箱にして一箱二合壜四打入とす、大抵上海、香港、南洋諸島、及び魯米の方面に輸出し、帝国鉱泉会社は明治四十年資本金六十万円を以て組織せり、一ヵ年の産額十万箱にして一箱二合入り四打とす、半ば内地に売り半ば浦_斯徳[ウラジオストク]支那及び南洋諸島へ搬出す、この鉱泉の特徴は天然瓦斯を使用するにあ りと。

山下城址

山下城址は多田村より二里奥にして東谷村の内笹部にあり、南北朝の時鹽川伯耆守の裔孫西畝野の甘露寺を破壊して用料とし、此城を築く子孫世々住し、天文年間に伯耆守二弟修理主膳と共に、能勢郡枳根城主能勢小重郎と戦い、終に稻地に大敗して二弟陣没す、永禄十一年時の伯耆守織田信長に随身して戦功あり、元亀元年伯耆守国満善源寺を建つ後豊臣氏に属し、徳川氏に至り旗下の士に列し城退転せり。

山下の森

山下の森あり、信実[のぶさね]の歌に
   降行ば松も緑も色づきて梢さびたる山下のもり
   むかつをの木々の紅葉をさながらに錦と見する山下の森

行者窟

行者窟は中谷村の内民田村にあり、役行者箕面山より来り密行を修せし所、窟前に駒の伏したる形岩石に印せり。之より戻りて電車に乗れば花屋敷なり。

花屋敷

花屋敷停留場は阪鶴線の池田駅と僅かに一丁並行して停車す、先ず川西村大字栄根村の縁起を聞くに 平城天皇大同年間に阪上田村麻呂蝦夷を平定し帰りて、郡の大物浦に泊するに漠々たる曠野にして、北方に地あるを見る、名づけて阪上と云う後栄根と改む、寺畑は天平元年聖武帝の勅願により栄根寺を創立せられ、爾後寺僧等附近の地を開墾し耕種をなす、次第に民戸増殖し一村をなすに至り寺畑を以て村名とす。

銭屋五兵衛の記念碑

銭屋五兵衛の記念碑は停留場より一丁北なり、奇石巨岩を以て小丘を造り、丘上建つるに碑を以ってす、是れ福井県敦賀町仁侠の志士東塚一吉の寄附する処、地勢高燥にして閑雅俗塵を断つ、眺望頗る好く伊丹附近の田園及尼ヶ崎の白波も一眸の裡に集む、西は六甲山禿峰奇巒と相対し、東は五月山の鬱蒼たるあり、春風駘蕩桜花の候及び秋気満天楓樹の夕、明月麗花共に詩人墨客の一遊に価す。
炭酸泉あり脚気病痔病に大効能ありて、一度入浴せば必ず験[しるし]ありと、古霊泉として太閤時代迄噴水せしも後一時止みたりしも東塚一吉之を開きしに、再び噴水するに至れり、料理店旅館を設け内湯として開設す。
銭屋五兵衛碑文(略)

満願寺

満願寺は神秀山と号す停留所より北十八丁、本尊は千手観音にして開祖は勝道法師とす、真言宗古義派なり
抑[そもそも]満願寺と称せしは、草創の当時本尊の霊験著るしく満願せずと云う事なし故に名づけしと、又伝え云う開基満願上人より出でしと、本山は太古素盞鳴[すさのお]尊降臨し給いし処なりとて崇敬す、其後幾多の変遷に遇い、又灰燼に帰せしが為め拠るべきもの乏しく、慶長年間に至り再建して其一部を回復せしのみと、停留場の附近は桃林多く花時遠近より来り賞するもの多し

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