■ 能勢電絹延橋車庫     [目次ウ ィンドウ]   [目次]

一昔前の能勢電の車輌写真を見ていると、それら車輌の多くが町工場のような小さな車庫付近において撮影されていることに気付く。これが開業から波乱の時代までを共にしてきたとされる「絹延橋車庫」である。本節では、この車庫について調べてみることにする。

絹延橋車庫は、最初期から設けられた主要な車庫で、名前の通り絹延橋駅横に設置されたものである。その所在地から、「出在家車庫」とも呼ばれていた。これ以外の車庫としては、能勢口の北方に小規模な「能勢口車庫」が存在していたことも記録されているが、引き上げ線程度のものであったようで、大正年間に使用中止されている(その後も留置線として線路だけはしばらく残っていた)。
絹延橋車庫の建物は当初1棟であったが、後に新しい車庫の建物と建物を伴わない線路1線が増設されたとされている[47]

構内の全体像は、写真を見ただけでは少し分かりにくく、また出版されている資料にも配線図は掲載されていないが、建設省公文書中には構内配線を記した図が存在している。

絹延橋車庫

絹延橋停留所付近配線図
能勢電気軌道株式会社「停留所乗降場擁壁設置届」付図「絹延橋停留所平面図」
大正15[49](国立公文書館所蔵)に基づき作成

東側の車庫建物の寸法は180.0ft×24.0ft、西側は120.0ft×24.0ftと書き込まれている。換算するとそれぞれ、401m2、268m2であり、社史の記述とほぼ一致する。

ところが、複数の写真(戦後のもの)を見るといずれもこのような配線にはなっておらず、少し異なっていることが見て取れる(下図)。つまり、駅の能勢口方手前で車庫に分岐するのでなく、待避線(対面ホーム)の滝山方端から車庫に入る形になっているのである。 社史にも見当たらないのだが、このような配線変更が昭和初期にあったのかも知れないし、上図の方が実際と異なっていたのかも知れない。真相は不明である。 因みに同図に示す通り、本線に近い建物は「旧車庫」、その西側が「新車庫」と呼ばれており、各車庫線には1〜4まで線番が付加されていた。

絹延橋車庫

写真(S.28,S.41)[15](pp.6-7)等より再現した配線図

絹延橋車庫は上図でもわかるように有効長が短く、少数の小型車が単車で運用されていた時代にはまだしも、元新京阪P-4・P-5型による2連運用が始まり、やがて15m・19m級車輌の時代を迎えようとする局面に至って、容量的に、また整備上も不十分なものとなってしまっていた。さらに複線化計画で車庫の一部を新線に繰り入れる必要が生じた。このため、平野に新しい大規模な車庫が作られ、絹延橋車庫は廃止されることとなった。平野車庫の図面は文献[47]にも示されているが、留置設備・保守点検設備とも絹延橋車庫とは比較にならない近代的なもので、現在も使用されていることは周知のとおりである。

能勢電車庫関係年表
T. 2.3.13絹延橋車庫(出在家車庫)開設
T. 2.4.13能勢口車庫開設
T.12絹延橋車庫増設(新車庫)
T.15同車庫の間に新線1本を増設
S.13能勢口車庫廃止(届)
S.41.1.25平野車庫完成
S.41.1.25絹延橋車庫廃止
S.42絹延橋複線化(川西能勢口〜鶯の森複線化第1期工事)

絹延橋車庫の廃止は、見かけ上は単なる車庫の移転に過ぎないが、高度成長期における能勢電沿線、ひいては川西市全体の人口増加の影響を受けた、鉄道における最初の転換事例と考えることができるかもしれない。これに続き、鶯の森までの複線化(S.42.11)を始め急速に近代化が進み、能勢電はもはや山里の軌道ではなくなって行く。これに対し阪急、国鉄ともに、この昭和40年頃からの人口増加に呼応するような目立った設備改造はしばらく行われることなく、能勢口周辺には次第に歪みが蓄えられていくことになるのである。

現在の絹延橋駅

現在の絹延橋駅(2001)
上記大正15年の配線図に見られる車庫への分岐あたりから撮影。
車庫に当たる部分は写っていないが、マンション、市営住宅、小さい公園となっている。

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