出 席 者
2000.6.10. 宝塚市にて収録。司会・再構成=筆者
− 本日はお忙しい中お集まりいただきありがとう ございます。今日お集まりいただいた方々は、かつて長期間にわたって川西池田駅の周辺 に住んでおられた経験をお持ちで、その時期はそれぞれ異なっているわけですけれども、 本日はだいたい大正時代から第二次大戦くらいまでの時代のその辺りの雰囲気など思い出 すままに自由に語っていただきたいと思います。
森田 私は昭和11年に嫁入りしてから寺畑にずっ と居まして、昔、駅前でうどん屋を出していたんですが、駅を降りる人は少なかったとは いえ、駅前の広場にトラックを止めてよく工事の人が食べに来てましたので、最近駅が移 転するまでは結構はやっていましたね。
− その工事というのは移転工事ですかね。
森田 いえ、駅と限らずちょくちょくあったようで す。清荒神まであまり車の止められる食堂がなかったので、車でお参りする人が必ず寄っ ていたりしました。駅前の広場に止めるわけですが。
黒田 寺畑は少しも変わっていないですね。
桐原 上の方は特にね。一丁目とかの古い家も、建 て替えてはいますが。官舎がありましたが、これはマンションになっていますね。
桐原 駅は昔からあのような木造のものだったんで すか?
黒田 ええ、私が昔遊んでいた頃からあの格好であ の場所にありましたね。ただ、駅前はバスの停留所もなくて全部広場だったんです。
森田 藤の棚があってね。
桐原 藤棚の前に大きな桐の木が1本立っていまし たね。
桐原 駅の前の国道は昔は舗装されていましたっけ ね?
黒田 あれは、子供の頃は地道でしたね。
森田 国道前の家は国道が広がるのにあわせて下が ったんですね。
− 道には何が通っていたんでしょうね。
森田 荷車ですね。
桐原 馬車や牛車も通っていましたね。
砺波 国道の裏の道が宝塚や有馬に行く古い街道で、 太閤様も通った記録があると近くの人が行っていましたね。
それはまた、古い話(笑)
森田 もともと国道は狭かったんです。駅のところ だけは広かったんですが。
桐原 日通というのは、かなり昔からありましたっ けね?
黒田 ええ、ありましたね。
桐原 一時、豆陽工業という会社があそこにありま してね。戦争で使えなくなった飛行機を集めていたんです。フェンスがあって、その中ま で入ってよく通信機なんかの部品を探しに行ったものです。追っ払われたりもしましたが (笑)。
森田 池田の駅の前にも、その頃は落ちた飛行機を 集める場所がね、余所から引っ張ってきて置いてありましたね。
桐原 能勢口の方はどうでしょう。私がおぼえてい る限りでは丸通を過ぎると商店街のようにはなっていましたが。
森田 臭いどぶ川があってね、変な色が付いていて 「赤い川」なんていわれた頃もありましたが…
桐原 あれはどうも染料だったという話ですね。
黒田 私の小さかった頃は原っぱでしたね。
森田 あっちの方に転車台や大きな車庫がありまし た。
− 日通の引込線があったということですが。
桐原 機関車で引っ張るというのは滅多になく、人 手で押して渡っていましたね。
森田 こっちの駅の脇までそうやって持ってきてい ましたね。
砺波 日通の奥が農協の倉庫の入り口で、そこで寺 畑の盆踊りがありましたね。寺畑から市議会の議員が出た関係だったとかで、みんなで提 灯を吊りに行ったおぼえがあります。
− 蒸気機関車について何か覚えておられますか?
黒田 汽車はやっぱり嫌われていましたね。
森田 10時1分という汽車があって、「大運転」 と呼ばれていたんですが、宝塚の方から凄いスピードで、池田も止まらない急行だったの でしょうか、これが来ると、「大運転が来たで。もう寝よか」と言って時計代わりになっ ていましたね。すごい振動でした。これが最終だったですかね。
黒田 「終」といっていましたね。「終だから戸を 閉めておいで」とか。
− 近くに鉄道があっていろいろ困ることもあった と思いますが、何か国鉄側とで揉め事などはなかったですか。
森田 そんなことはあっても言い出せるような状況 ではなかったですね。お上のすることという訳で。でも、ほとんど毎時通っていましたの で汽笛もやかましかったですね。
− 花屋敷はなんで商店が発達しなかったんでしょ うね?
砺波 花屋敷にあった魚屋さんの話では、節約する 家が多く儲からないといっていましたね。何をしてもだめだと。
桐原 坂を上がったところの角に山崎という酒屋が ありました。線路沿いに右に曲がると散髪屋、ポンプ屋、魚屋、八百屋があって、商店は これだけでしたね。あとは小戸神社の寺畑遥拝所までずっと空き地で。昭和24,5年の 話ですが。雲雀丘と一緒になってからみんなそちらに移ったようです。
桐原 昔この辺に英語の上手なおじいさんがおられ てね。
森田 そうそう、英語のおじいさんと呼んでいまし たね。
桐原 子供の頃、花屋敷のずっと上の今の造形大学 のある辺りの山から一冬分の木を倒して持ってきましたね。縄で引きずって坂を下りるん です。牛を持っていた人は括り付けて走らせていましたが。その木を薪割して屋根の上に 載せて乾かすんですね。
砺波 薪割は昭和40年頃までやっていましたね。
− ガスがなかったんですね。
森田 そう。家の回りにガス管を引き回していた工 事をおぼえていますね。電気はもっと前に来ていました。
− 夜は暗かったですか?
森田 道は真っ暗です。駅は汽車が通ったらすぐ消 していました。入ってくる前に付けて、出たらすぐ消していました。
黒田 そうでしたね。消してました。電燈でした。
− 駅員の人はどこから来てたんでしょうね?
森田 たいてい三田や篠山でしたね。寺畑の人は少 なかったです。
− 寺畑辺りでは国鉄と阪急のどちらにも近かった わけですが、普段どちらを使うかということは気にしていましたか?
森田 はじめは汽車の方が安かったんですがね。だ んだん値上げして阪急の方が安くなりましたね。梅田まで片道24銭。汽車はヤミ米とか を直に座席に置いていたので着物で座りづらかったし、あまり乗らなくなりました。ほと んど阪急で大阪に行っていましたね。池田までは区内で5銭でした。
(筆者記:ざっとテープ起こししたため、方言的なニュアンスなどが失わ れていることをお詫びします。機会を見てより忠実に書き直したいと思います。)
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